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福娘童話集 > 日本民間故事 > 九月
9月3日の日本民話
(9月3日的日本民間故事)
石子づめになった子
石刑
・日本語 ・日本語&中国語
むかしから奈良のシカは春日大社(かすがたいしゃ)の神さまのお使いだといって、とても大切にされてきました。
奈良的這鹿橫是從久遠之前就開始了、當地有建了個春日大社、這裡面貢到的神仙不曉得跟鹿是甚麼因緣、幫鹿收編變成了自己的馬仔、這以後奈良的鹿就到當地變爹了。
むかしむかし、この大社のすぐ西の興福寺(こうふくじ)という寺のわきに、寺子屋(てらこや)が一つありました。
當時的興福寺就建到離大社不遠的靠西的地方、廟邊邊還有個幼兒園。
ある日の事、子どもたちが手ならいをしていたとき、シカが一頭よってきて三作(みのさく)という子の習字(しゅうじ)の紙を取って食べてしまったのです。
這就有天老師喊學生練字、練到練到一條鹿就跑教室來了、幫個喊三作小卵日的寫字紙用嘴巴一扯、嚼了幾口、看別個這吃的是甚麼好東西。
「あっ! 返せ!」
我的紙!
三作は手に持っていた筆(ふで)を、シカに投げました。
小屁股㫘了紙、這筆索性也不要了、對到鹿就是一掗。
ただおどろいて軽い力で投げたのですが、でもその筆がシカの鼻に当たると、シカはドサッと庭先に倒れてしまいました。
小卵日其實也㫘甚麼力氣、但這下筆𢴈到了鹿鼻、不曉得是擊中了弱點還是甚麼、鹿過直接倒地上的。
それっきり、シカは動きません。
不動了。
「シカが、死んでしもうた」
「三作が、筆を投げて殺したんや」
子どもたちは、大騒ぎです。
夾卵、三作你幫鹿搞死了!
一看死條鹿、小卵日個個都不震定了、一個個到那裡議論。
お師匠(ししょう)さんも、青くなって飛んできました。
老師聞聲也趕來、臉都黑了。
神さまのお使いであるシカを死なせたら、たとえ殺そうとしてやった事でなくても石子(いしこ)づめの刑を受けると決まっていたのです。
講你幫神的馬仔弄了、這要遭天譴的、按當地慣例要幫你挖條坑甩進去、然後再甩嵒頭幫你填了、這不就是石刑啊。
石子づめとは、石をつめて生きうめにされることです。
「えらい事や。ほんまに死んどる」
「・・・・・・」
這聽到要挖條坑幫人活埋、一下全班不鎮定了。
三作は口もきけずに、ただふるえていました。
三作是駭的是話都講不來的、全身到那裡抽搐。
そのうちに役人が飛んできて、おそろしい顔で三作をひきたてていきました。
這就一下來幾個差人幫三作帶走要弄他了、樣子好惡。
それから数日後、興福寺境内(こうふくじけいだい)の十三鐘とよばれている前庭に、深い穴が掘られました。
真就幾天、廟裡面挖坑了、地方就是前院、這院子名字喊十三鐘、就看到裡面一條好大的深坑。
可哀想に三作は死んだシカと抱き合わせにされたうえ、石子づめにされてしまったのです。
三作和死到的鹿這就一起進坑了、好傢伙、人跟鹿陪葬啦、一下子嵒頭也是開始填了。
それは日暮れ時で、むかしの時刻の呼び方で七つ(→午後四時ごろ)と六つ(→午後六時ごろ)のあいだの事だったそうです。
以前時間都是靠廟定、這就敲鐘、敲十四下就是七鐘、十二下就是六鐘。分別是下午四點跟六點。
七つには鐘が十四、六つには十二鳴りますから、その間の十三で十三鐘とよぶようになったとも言われています。
這就之所以喊十三鐘、就是因為人是這個時候著填的。
三作がどういう子どもだったのか、年は何才だったかは記録に残っていません。
這就只有條這麼個口實留了落來、並㫘的關於三作具體更多的記載了。
でもしばらくあとで三作の母がここへきて、可哀想な我が子の形見にモミジの木を植えたそうです。
這母就過死了兒、肯定就要過來哭墳啦、碑也不能原地立、就過种了個楓樹當是自己兒的墓。
『シカにモミジ』といわれて、この組み合わせは絵にもたくさん描かれていますが、それもこの事からはじまったといいます。
為甚麼現在後世經常幫鹿還有楓組合到一起啦、就是因為這事起的因。
またほかの言い伝えには、三作は興福寺のお稚児(ちご→寺院などにつかえる少年)さんだったとか、年は十三才で、シカに投げつけたのは習字の時に使う、ぶんちんの一種で、『けさん』という物だったともあります。
但關於這事還是有其他不同的講法、講是講這三作就是廟裡面的收留的小兒、而當時甩鹿的並不是筆、而是壓紙的硯。
現在も奈良にはシカがたくさんいて、奈良公園のあたりには千頭以上のシカがいるそうです。
現在奈良的鹿是躀卵脬的多、少講都有千頭以上了、但是吃這鹿肉還是莫想了。
おしまい
结束
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