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なぞなぞ魔法学園
手塚 治虫
手塚 治虫
4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)

「漫画(まんが)の神様(かみさま)」手塚治虫(てづかおさむ)うんちく

*漫画の神様、手塚治虫(本名(ほんみょう)手塚治(てづかおさむ))先生(せんせい)は、私(わたし)にとっても絵(え)を描(か)いていくうえでの神様なので、今回(こんかい)のうんちくは手塚先生へのファンレターでもあります。

のちの漫画の神様は1928年(昭和3年)11月3日、長男(ちょうなん)として大阪(おおさか)に生れます。
お父さんは手塚粲(ゆたか)さん。
*難(むずかしい)しい漢字(かんじ)です
お母さんは文子さん
昭和3年というと資生堂(しせいどう)パーラーが開店(かいてん)し、ラジオ体操(たいそう)が放送開始(ほうそうかいし)された年とか。
11月3日が明治天皇(めいじてんのう)の誕生日(たんじょうび)で、当時祝日(とうじしゅくじつ)だったことから名前に明治の治という字にしたそうです。
時は昭和時代(しょうわじだい)になってまもないころ、明治天皇、明治時代を良い時代と、懐(なつ)かしむ人が多(おお)かったようです。

二年後に弟(おとうと)さん、4年後に妹(いもうと)さんが生まれています。
のちに手塚先生の漫画によく出てくるヒョウタンツギはこの妹さんの落書(らくが)きからうまれました。
治少年が5歳の時、家族は兵庫県(ひょうごけん)に引っ越します。
そこは前年(ぜんねん)他界(たかい)したおじいさんの屋敷(やしき)でした。
その場所(ばしょ)は宝塚大劇場(たからづかだいげきじょう)の前身(ぜんしん)の、宝塚新温泉(たからづかしんおんせん)や宝塚ルナパークなど行楽施設(こうらくしせつ)が立ち並(なら)ぶ、日常(にちじょう)から離(はな)れた異空間(いくうかん)のような不思議(ふしぎ)な場所(ばしょ)でした。
その不思議な風景(ふうけい)の記憶(きおく)は、手塚先生の後の作品世界(さくひんせかい)に大きな影響(えいきょう)を及(およ)ぼしたといいます。
家には当時珍(めずら)しかった手回(てまわ)し映写機(えいしゃき)があり、自宅(じたく)でチャップリンの喜劇映画(きげきえいが)やディズニーのアニメ映画をくりかえし観ていました。
父は宝塚倶楽部(たからづかくらぶ)の会員(かいいん)で、治少年も時々(ときどき)ホテルのレストランや、宝塚少女歌劇団(たからづかしょうじょかげきだん)に連(つ)れて行ってもらえました。
また隣家(りんけ)には宝塚男役(たからづかおとこやく)トップスターの姉妹(しまい)がすんでいて、治少年の憧(あこが)れでした。

初恋(はつこい)の相手も宝塚の生徒(せいと)だったといいます。
当時、治少年の好みは鉄火肌(てっかはだ)の強(つよ)いお姉(ねえ)さんタイプだったといいます。

新(あたら)しい物(もの)好(す)きのお父さんは当時(とうじ)は珍しかった漫画(まんが)を収集(しゅうしゅう)して本棚(ほんだな)に置(お)いていました。
お母さんはとても優(やさ)しく理解(りかい)がありました。
治少年の好きな漫画をたくさん買ってくれました。
治少年のありのままをすべて受(う)け入れてくれていました。
軍人(ぐんじん)の娘(むすめ)で、とても忍耐強(にんたいづよ)い人でした。
のちの手塚治虫の漫画(まんが)に出てくる、母性(ぼせい)あふれる母親像(ははおやぞう)はお母さんの影響(えいきょう)を受(う)けたのでしょうね。
息子の想像力に早くから気づき、本や漫画を読み聞かせてくれたといいます。

昭和10年大阪(おおさか)の小学校に入学(にゅうがく)。
お母さんが東京出身(とうきょうしゅっしん)だったこともあり、方言(ほうげん)を話せなかった治少年は大人(おとな)しい性格(せいかく)もありどこか浮(う)いた存在(そんざい)だったといいます。
2年生の時はそれがいじめという形(かたち)になりました。
侮辱(ぶじょく)する「ガチャボイ」というあだ名を付けられて囃(はやし)し歌(うた)でからかわれました。
よく泣(な)いていたといいます。
しかし幼(おさな)いころから描いてきた漫画が彼(かれ)を救(すく)うことになります。

3年生の時には初(はじ)めての短編漫画(たんぺんまんが)を描(か)きます。
授業中(じゅぎょうちゅう)に漫画を描いていて、母親(ははおや)が呼(よ)び出されますが、お母さんは治少年の漫画を読んで、とてもおもしろい、貴方(あなた)には才能(さいのう)があるからこれからもおもしろい漫画をたくさん描いてね
と伝(つた)えたそうです。
お母さんがあなたの第一号(だいいちごう)ファンだとも。

5年生では初の長編漫画(ちょうへんまんが)を描き、それは生徒(せいと)はもちろん先生(せんせい)の間でも話題(わだい)になり、それ以後、教師からも漫画を描くことを黙認されるようになりました。
クラスでも一目(いちもく)おかれる存在になり、彼の描く漫画目当(まんがめあて)てに、いじめっ子たちも家(いえ)に遊(あそ)びに来(く)るようになりました。
当時(とうじ)としては珍(めずら)しく、友人(ゆうじん)が遊びに来ると、紅茶(こうちゃ)やしゃれたお菓子(かし)が出たといいます。
当時描かれた漫画の一部(いちぶ)は記念館(きねんかん)に保存(ほぞん)されています。
そしてこの時期(じき)、同級生(どうきゅうせい)のEくんと仲良(なかよ)くなり、彼の影響(えいきょう)で昆虫(こんちゅう)や化学(かがく)、天文学(てんもんがく)に惹(ひ)かれるようになっていきます。
治少年の住(す)んでいた地域(ちいき)は田(た)んぼが広(ひろ)がり、昆虫採集(こんちゅうさいしゅう)が心(こころ)ゆくまでできました。
友人から借(か)りた昆虫図鑑(こんちゅうずかん)で運命(うんめい)の出会(であ)いをします。
甲虫(こうちゅう)のオサムシです。
なぜ無数(むすう)にいる昆虫の中でオサムシに惹(ひ)かれたのでしょう?
首(くび)が長(なが)く肉食(にくしょく)で、夜(よる)に行動(こうどう)するところに惹かれたそうですが、なぜそこがそんなに良(よ)かったのかよくわかりません。
ともかくオサムシに惹かれた治少年はこの時期(じき)からペンネームとして「手塚治虫」を使(つか)い始(はじ)めました。
22歳ごろまではそのまま「治虫(オサムシ)」と読(よ)ませていたそうです。

1941年(昭和16年)中学校(ちゅうがっこう)に入学しますが、日本は軍事色(ぐんじしょく)が日に日に強(つよ)まっていく時期で、漫画を描くことを認(みと)められていた小学生時代と一変(いっぺん)。
描いている所(ところ)を教師(きょうし)に見られると殴(なぐ)られるようになってしまいます。
しかしそんなことは彼の描きたいという想(おも)いを止(と)めることはできませんでした。
マンガ好(ず)きの仲間(なかま)と同好会(どうこうかい)を作(つく)り執筆(しっぴつ)をつづけます。
またこの頃(ころ)精密(せいみつ)な絵(え)で有名(ゆうめい)な原色甲虫(げんしょくこうちゅう)の図鑑(ずかん)を自作(じさく)します。

16歳の時に、戦時中(せんじちゅう)の特例(とくれい)で中学が短縮(たんしゅく)、4年で卒業(そつぎょう)させられます。
*当時の中学は5年制でした。
そして体の弱(よわ)いものを入れる強制修練所(きょうせいしゅうれんじょ)に入れられて、9月には軍需工場(ぐんじゅこうじょう)にかり出されました。
勤労奉仕中(きんろうほうしちゅう)、大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)に遭遇(そうぐう)します。
この1945年3月から8月にかけての連続(れんぞく)しての大空襲(だいくうしゅう)で一般市民(いっぱんしみん)1万人以上が亡(な)くなっています。
治虫もこの時、頭上(ずじょう)に焼夷弾(しょういだん)が投下(とうか)されるという体験(たいけん)をしますが九死(きゅうし)に一生(いっしょう)を得(え)ています。
のちにこの大阪空襲の体験を「紙(かみ)の砦(とりで)」「どついたれ」など自伝的漫画(じでんてきまんが)にしています。
この空襲以降(くうしゅういこう)、治虫は工場(こうじょう)に行くのをやめて、自宅(じたく)にこもりひたすら漫画を描き続(つづ)けたといいます。

この頃高校を受験(じゅけん)しますが、漫画ばかり描きすぎたからか不合格(ふごうかく)に。
同じ年、大阪帝国大学医学専門部(おおさかていこくだいがくいがくせんもんぶ)の試験(しけん)に合格(ごうかく)。
この頃の日本は軍医(ぐんい)を増(ふ)やすために、中学卒業(ちゅうがくそつぎょう)からでも入りやすかったといいます。

1945年の夏(なつ)。
ようやく戦争(せんそう)が終(お)わり、学生生活(がくせいせいかつ)をおくる治虫は、戦時中(せんじちゅう)描きためた漫画の中から長編(ちょうへん)「幽霊男(ゆうれいおとこ)」(のちの「メトロポリス」の原型(げんけい))を描きなおして
読売新聞学芸部(よみうりしんぶんぶんげいぶ)に送ります。
読売新聞からは返事(へんじ)はなかったのですが(後から後悔(こうかい)したかもしれませんね)、隣(とな)りに住んでいて毎日新聞(まいにちしんぶん)で働(はたら)いていた女性(じょせい)の紹介(しょうかい)で、子供向け新聞「少国民新聞(しょくこくみんしんぶん)」(今の毎日小学生新聞)。
大阪版(おおさかばん)に4コマ漫画「マアちゃんの日記帳(にっきちょう)」を連載(れんさい)することができます。
これが手塚治虫のデビュー作品(さくひん)です。
このマアちゃんはローカルなりに人気(にんき)があり、人形(にんぎょう)や駄菓子(だがし)のキャラクターになったといいます。

マアちゃんは三か月ほどで終(お)わってしまいますが、続(つづ)けて「京都日日新聞(きょうとにちにちしんぶん)」に4コマ「珍念(ちんねん)と京(きょう)ちゃん」を連載(れんさい)。
他(ほか)にも各紙(かくし)に4コマを連載しますが、4コマで自(みずか)らの壮大(そうだい)な世界(せかい)をまとめていくのには限界(げんかい)を感(かん)じていました。
そんな行き詰(づ)まりを感じていた頃、同人誌(どうじんし)の例会(れいかい)を通(つう)じて長編漫画(ちょうへんまんが)の合作(がっさく)を持ちかけられます。
それは戦後初(せんごはつ)の豪華本(ごうかほん)でした。

それまで長編漫画をたくさん描きためていた治虫にとってそれはのどから手が出るほどの願(ねが)ってもいない話でした。
大体(だいたい)の構成(こうせい)を合作相手(がっさくあいて)の酒井氏(さかいし)が行(おこな)い、後は自由(じゆう)に治虫が描くことが出来(でき)ました。
そうしてできた200ページ描きおろしの「新寶島(しんたからじま)」は1948年(昭和23年)1月に出版(しゅっぱん)。
当時としては異例(いれい)のベストセラーになりました。
戦後(せんご)すぐの時代(じだい)、子どもたちは漫画にうえていたのでしょう。
むさぼるように読(よ)んだと聞きます。
この「新寶島(しんたからじま)」は一般(いっぱん)に戦後のストーリー漫画の原点(げんてん)と言われています。
漫画のヒットで大阪で赤本(あかほん)ブームが巻(ま)き起こります。

*赤本。
明治時代(めいじじだい)から出版(しゅっぱん)された少年向(しょうねんむ)きの講談本(こうだんほん)・落語本(らくごほん)をいいます。
表紙(ひょうし)に赤(あか)を多(おお)く使(つか)ったことからこの名がついています。
この頃は子供向けの漫画は一般(いっぱん)の書物(しょもつ)よりも下に見られていました。

本屋(ほんや)さんではなく、駄菓子屋(だがしや)や露店(ろてん)で売(う)られていたようです。
内容(ないよう)は描きおろしが多く、作者名(さくしゃめい)も書かれていないことが多かったとか。
赤本はやがて貸本(かしほん)に系統(けいとう)を移(うつ)していきます。
この赤本ブームにのって治虫はいくつも長編漫画を手掛(てが)けていきます。
まさに魚(さかな)が水(みず)を得(え)た状態(じょうたい)です。

医学部(いがくぶ)での学業(がくぎょう)のかたわら月に1,2冊は描きあげていたそうです。
並(なみ)の人なら医学の勉強(べんきょう)だけでいっぱいいっぱいでしょうし、手塚先生の足元(あしもと)にも及(およ)ばない私から考(かんが)えても、漫画を描くことだけに集中できていたとしても月に1,2冊描きおろしは無茶苦茶なスピードです。
まさに描きながらストーリーがどんどん溢(あふれ)れ出してきていたのでしょうね。

1948年(昭和23年)「ロストワールド」「メトロポリス」。
1949年(昭和24年)の「来(く)るべき世界」は手塚先生の初期(しょき)のSF三部作と言われています。

児童漫画初(じどうまんがはつ)のキスシーンを描いたり、ゲーテの「ファウスト」を漫画化したり、漫画入門書(まんがにゅうもんしょ)の走(はし)り出しの「漫画大学(まんがだいがく)」を描いたり、精力的(せいりょくてき)に新(あたら)しいことに挑戦(ちょうせん)していきます。
しかし執筆(しっぴつ)が忙(いそが)しくなるにつけ、大学の単位取得(たんいしゅとく)は難(むずか)しくなり、漫画家と医者(いしゃ)の両立(りょうりつ)は難しくなります。
手術(しゅじゅつ)の研修中(けんしゅうちゅう)メスがペンに見えたりで、教授(きょうじゅ)からも医者を目指(めざ)すのはやめて漫画家に専業(せんぎょう)するように忠告(ちゅうこく)されました。

手塚先生のお母さんも夢(ゆめ)を追(お)うように助言(じょげん)します。
「あなたは漫画と医者(いしゃ)とどっちが好きなの?」
「漫画です」
「じゃあ、漫画家になりなさい」

こんなことが言える母親(ははおや)はなかなかいないですよね。
まず医者になれというでしょう。

「あなたの好(す)きな方(ほう)の道(みち)に進(すす)みなさい」
シンプルで深(ふか)い言葉(ことば)です。
そしてなんて愛(あい)にあふれた言葉でしょうか。

1951年(昭和26年)1年だけ留年(りゅうねん)したものの医学部(いがくぶ)を無事(ぶじ)に卒業(そつぎょう)。
この年に専門部(せんもんぶ)が廃止(はいし)されたのでぎりぎり瀬戸際(せとぎわ)の卒業でした。

続(つづ)いて大阪大学医学部付属病院(おおさかだいがくいがくぶふぞくびょういん)で1年間インターンをして1952年(昭和27年)医師国家試験(いしこっかしけん)に合格(ごうかく)。
翌年(よくねん)には医者の登録(とうろく)を受(う)けています。

ブラックジャックのような無免許(むめんきょ)ではなかったのです。
(もっともブラックジャックは免許を取ろうとすればいくらでも取れたのですが)

多くの漫画を産(う)みだしながらの医者免許(いしゃめんきょ)。
驚異(きょうい)の頭脳(ずのう)です。

そして精力的(せいりょくてき)に東京(とうきょう)への持ち込みも始(はじ)めます。
期待(きたい)していた講談社(こうだんしゃ)ではあえなく断(ことわ)られてしまいますが、新生閣(しんせいかく)という少年少女向(しょうねんしょうじょ)けの出版(しゅっぱん)をする会社(かいしゃ)に持ち込みが成功(せいこう)。
ここで読み切りをいくつか描(か)かせてもらえて、やがて新創刊(しんそうかん)された雑誌(ざっし)「少年少女漫画と読み物」への連載(れんさい)につながります。
1950年(昭和25年)に描きだした「タイガー博士(はくし)の珍旅行(ちんりょこう)」が最初(さいしょ)の雑誌への連載になりました。

同年11月、学童社(がくどうしゃ)の「漫画少年(まんがしょうねん)」で「ジャングル大帝(たいてい)」を連載開始(れんさいかいし)。
光文社(こうぶんしゃ)の「少年」で鉄腕(てつわん)アトムの前身(ぜんしん)になる「アトム大使(たいし)」を連載。
他にも連載を始め、この年は主要(しゅよう)な少年漫画誌(しょうねんまんがし)のほとんどで手塚先生の漫画が連載されることになりました。

1952年(昭和27年)に上京(じょうきょう)。
1953年(昭和28年)
講談社(こうだんしゃ)の「少女(しょうじょ)クラブ」で「リボンの騎士(きし)」を連載開始。
宝塚歌劇(たからづかかげき)やディズニーに影響(えいきょう)を受けたストーリーとキャラはその後の少女漫画界の道筋(みちすじ)になります。
また学童社の紹介(しょうかい)でのちに有名(ゆうめい)になる豊島区(とよしまく)のトキワ荘(そう)に入居(にゅうきょ)します。

*トキワ荘
1952年(昭和27年)~1982年(昭和57年)。
2階部分(にかいぶぶん)は10室(しつ)ですべて4畳半(よんじょうはん)押入(おしい)れ付(つ)きという狭(せま)い部屋(へや)でした。
他に共同(きょうどう)の調理場(ちょうりば)とトイレがありました。
お風呂(ふろ)は無(な)かったようです。

手塚治虫の入居を皮切(かわき)りに、学童社は自社(じしゃ)で連載中(れんさいちゅう)の漫画家を次々(つぎつぎ)とトキワ荘を紹介します。
多い時には8人ほどの漫画家が住(す)み、仲間(なかま)の漫画家や、それに編集者(へんしゅうしゃ)があつまり、大変(たいへん)にぎやかでした。
ここに住んだ若手漫画家(わかてまんがか)はそのほとんどが有名になりました。
手塚治虫をはじめ、藤子不二雄(ふじこふじお)の二人、石ノ森章太郎(いしのもりしょうたろう)、赤塚不二夫(あかつかふじお)、水野英子(みずのひでこ)、などなど。
また頻繁(ひんぱん)に出入りしていた漫画家としては、つのだじろう、つげ義春(よしはる)など。
トキワ荘の物語(ものがたり)は住人(じゅうにん)やファンによって多くの漫画やドラマなどにされています。

最近(さいきん)ではトキワ荘をモデルにして、本気(ほんき)で漫画家を目指(めざ)す若(わか)い人やクリエーターに低賃金(ていちんぎん)でシェアハウスなどを貸(か)すプロジェクトが取り組まれています。
手塚先生は、トキワ荘の仲間に映画(えいが)をたくさん観(み)るようにすすめていますが、本人もこの時期前後(じきぜんご)10数年間、年に365本は必(かなら)ず観ていたといいます。
連載をいくつも抱(かか)えながらですごいです。

でも1年でそんなに映画が公開(こうかい)されているのか疑問(ぎもん)に思って公開数を調(しら)べてみたのですが、1955年、1年間の映画公開数約(やく)616本。
2016年は1,149本も公開されていました。
映画を観ることはは漫画の構図(こうず)や展開(てんかい)の勉強(べんきょう)になると聞いたことがあります。
私の年間映画鑑賞数(ねんかんえいがかんしょうすう)は3~5本ぐらい・・・。
365本は難(むずか)しいですが1週に1本、いやいや2週に1本くらいは観に行きたいです・・・。

1953年には関西(かんさい)の長寿番付(ちょうじゅばんづけ)が画家(がか)の部門(ぶもん)で1位になったそうですが取材(しゅざい)に来た記者(きしゃ)は、木造(もくぞう)2階建(にかいだて)てのトキワ荘に住んでいることにとても驚(おどろ)いたそうです。

1954年(昭和29年)
「ジャングル大帝」の次に、「火(ひ)の鳥(とり)」連載開始。
火の鳥は幾度(いくど)も連載を休(やす)みながらも続けられ、手塚先生のライフワークのようになりました。
この頃、「ぼくのそんごくう」連載。
一方で大人向けの漫画、幼児(ようじ)向けの漫画など手広(てびろ)く描いています。

1958年には劇場版長編漫画映画(げきじょうばんちょうへんまんがえいが)「西遊記(さいゆうき)」(ぼくのそんごくう原作(げんさく))の原案構成(げんあんこうせい)をしています。
孫悟空(そんごくう)は中国制作(ちゅうごくせいさく)の「西遊記 鉄扇公主(てっせんこうしゅ)の巻(まき)」を見ていらい、自分でも素晴(すば)らしい孫悟空を描きたいという手塚先生にとって思い入れの深(ふか)いキャラでした。
しかし今回の映画では孫悟空の恋人(こいびと)リンリンが死(し)んでしまうという悲劇的(ひげきてき)な終わりかたにしたいという手塚先生の意見(いけん)が通らなかったり、完全に満足(まんぞく)の出来(でき)る作品にはならなかったようです。
演出家(えんしゅつか)の 白川大作(しらかわだいさく)さんの主張(しゅちょう)するハッピーエンドで終わるラストになりました。

手塚先生は大いに憤(いきどお)り、のちに自分の思いをつらぬける会社(かいしゃ)「虫プロダクション」を設立(せつりつ)し、「鉄腕(てつわん)アトム」を制作(せいさく)することになったそうです。
確(たし)かにアトムは一度目のアニメ放送(ほうそう)では人類(じんるい)を救(すく)うためロケットごと太陽(たいよう)に飛(と)び込み2回目のアニメ放送では、好(す)きになった女の子ロボット、ニョーカがバラバラに解体(かいたい)されてしまうという悲劇的(ひげきてき)な最終回(さいしゅうかい)になっています。

この手塚先生との意見の相違(そうい)の件(けん)について、白川大作さんは「自分の作ったアニメを観(み)て、子供(こども)が泣(な)きながら帰るような物(もの)は作りたくなかった」と語(かた)っています。
私もテレビでこの映画を観(み)たことがありますがもしリンリンが死(し)んでいたらがっかりしていたでしょう。
この件では白川さんに一票(いっぴょう)です。
アトムもニョーカと結婚(けっこん)してハッピーエンドになってほしかった・・。
手塚先生ごめんなさい。

この頃から、次々と売(う)れっ子漫画家がデビューし、漫画も、劇画風(げきが)のものが流行(はや)ります。
手塚治虫の描く夢(ゆめ)のような世界(せかい)ではなく、社会(しゃかい)の闇(やみ)を描くリアリズムな劇画の世界、時代の流(なが)れにあせり、ノイローゼになり階段(かいだん)から転(ころ)げ落ちたり、病院(びょういん)にかかったりしたそうです。
それでも努力(どりょく)して自分の漫画に劇画を取り入れていくようになりました。

1959年週刊誌「少年サンデー」「少年マガジン」が創刊(そうかん)。
同じ年、見合(みあ)いで出会った悦子さんと宝塚(たからづか)ホテルで挙式(きょしき)。
悦子さんは遠い親戚(しんせき)で、ほとんど忘れていたものの幼(おさな)い頃会ったことがありました。
治虫が忙(いそが)しく、デートをすっぽかされることもあったといいます。
結婚までにしたデートは2回だけだそうです。
しかし治虫の働(はたら)く姿(すがた)を見てこの人を支(ささ)えてあげたいと思われたとか。
披露宴(ひろうえん)の一時間前まで缶詰(かんづめ)め状態(じょうたい)で仕事をさせられ、遅刻してしまいました。
悦子さんは献身的(けんしんてき)に夫(おっと)を支えていきます。

1961年(昭和36年)
自分のプロダクションである手塚プロダクションで動画部(どうがぶ)を立ち上げます。
アニメを作るためでした。
製作費(せいさくひ)もスタッフへの給料(きゅうりょう)も漫画で稼(かせ)いだお金をつぎ込みます。
もともと手塚治虫にとって漫画はアニメに挑戦(ちょうせん)するための手段(しゅだん)だったとも言います。
1年をかけて制作(せいさく)した40分の長編(ちょうへん)カラーアニメ「ある街角(まちかど)の物語(ものがたり)」は高(たか)く評価(ひょうか)されて、ブルーリボン賞や文部省芸術賞(もんぶしょうげいじゅつしょう)を受賞。
動画部は1962年「虫プロ」と改名(かいめい)し新(あら)たな一歩を踏(ふ)み出します。

1962年(昭和37年)
いよいよ日本初(にほんはつ)の30分枠(わく)のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」の制作(せいさく)に入ります。
夢(ゆめ)だったアニメの制作に手塚治虫は全身全霊(ぜんじんぜんれい)でのめりこみます。
それはわずか10名のスタッフでの始(はじ)まりでした。
毎週放送(まいしゅうほうそう)のアニメを普通(ふつう)のやり方では少人数(しょうにんずう)では続(うづ)けることが不可能(ふかのう)で、必要(ひつよう)に迫(せま)られて「リミッテッド・アニメーション」という、のちの日本のアニメ全般(ぜんぱん)の指針(ししん)になる手法(しゅほう)が確立(かくりつ)します。
それは人物(じんぶつ)の目(め)や口(くち)だけを動(うご)かしたり、大勢(おおぜい)いる人物の一部だけを動かして、セル画(が)の枚数(まいすう)を大幅(おおはば)に減(へ)らすやり方でした。
鉄腕アトムは子供たちの間で大人気(だいにんき)になり日本のアニメの代表(だいひょう)になる作品になりました。

1967年には「ジャングル大帝(たいてい)」のアニメ化。
第28回ヴェネツィア国際映画祭(こくさいえいがさい)サンマルコ銀獅子賞(ぎんじししょう)を受賞(じゅしょう)。
また大人向(おとなむ)けの色っぽい映画「クレオパトラ」「千一夜物語(せんいちやものがたり)」「悲(かな)しみのベラドンナ」の三部作もこのころ制作されています。

虫プロダクションは後(のち)の優(すぐ)れたアニメーション監督(かんとく)の産みの親(おや)でもありました。
「タッチ」「銀河鉄道(ぎんがてつどう)の夜(よる)」の杉井(すぎい)ギザブロー。
「銀河鉄道999」のりんたろう。
「ガンダム」の富野由悠季(とみのよしゆき)などなど。
しかし虫プロのアニメーターの現場(げんば)は過酷(かこく)でした。
30分のアニメに2,000枚以上の動画をたった5人で担当(たんとう)していました。
1人1日66枚を仕上(しあ)げていたとか。
腱鞘炎(けんしょうえん)になってしまいます・・。
しかも安(やす)くすればテレビアニメを増(ふ)やせるとの思いで製作費(せいさくひ)を安くして売りこんでしまい、手塚治虫自身も大失敗(だいしっぱい)だったといっています。
他の制作者も次々と安い値段でアニメを作るようになり、アニメ制作の値段の一つの指針を作ってしまいました。

今でもアニメーターの仕事が過酷(かこく)な割(わり)に報酬(ほうしゅう)が少ないのはこの頃の功罪(こうざい)かもしれません。
しかし手塚治虫自身は雑誌(ざっつし)などで責(せ)められると、あの製作費でなければ、当時アトムを買ってくれるスポンサーはいなかったと反論(はんろん)していたといいます。
後の時代からは「あの時こうしていれば」と、言うのはたやすいですよね。
あの時代、やれることを必死でやっておられたのは確(たし)かなことなのです。

虫プロも最初は経営(けいえい)が苦(くる)しかったのですが「アトム」の大ヒットで版権収入(はんけんしゅうにゅう)が莫大(ばくだい)なものになります。
海外(かいがい)に向けての放映権(ほうえいけん)や商品展開(しょうひんてんかい)で黒字(くろじ)に転換(てんかん)。
急速(きゅうそく)に規模(きぼ)が膨(ふく)らんでいきます。
全盛期(ぜんせいき)で社員総数(しゃいんそうすう)400~500人もいたそうです。
しかしアトムはしだいに手塚治虫の手を離(はな)れ、思っていたものから異質(いしつ)な変化(へんか)をとげてしまいます。
放映開始(ほうえいかいし)から1年半ほどで、原作(げんさく)のエピソードを使い切ってしまい、その後はスタッフの好(この)みによる物語(ものがたり)に変わっていきます。
視聴者(しちょうしゃ)の人気を得(え)るために派手(はで)な戦闘(せんとう)シーンがふえ、ユーモアのある優(やさ)しいアトムは、戦(たたか)うロボットに変貌(へんぼう)していきます。

アニメ制作のかたわら、アトムの原作漫画(げんさくまんが)や、のちに実写版(じっしゃばん)になった「マグマ大使(たいし)」なども精力的(せいりょくてき)に描いています。
しかしこの頃「w3(ワンダースリー)事件(じけん)」というものがおこり、信頼(しんらい)していた仲間(なかま)との間に禍根(かこん)を残(のこ)すことになります。
1965年企画(きかく)していたアニメとそっくり同じものが他のプロダクションでが企画していると表明(ひょうめい)。
虫プロ内で産業(さんぎょう)スパイがいるのではないかと大騒(おおさわ)ぎになったのです。
疑惑(ぎわく)は疑心暗鬼(ぎしんあんき)を生(う)み、何人(なんにん)かが虫プロを退社(たいしゃ)することになりました。

当初(とうしょ)虫プロでは、鉄腕アトム、ジャングル大帝に続くアニメに、雑誌「日の丸(ひのまる)」に連載(れんさい)していた「ナンバー7」を企画(きかく)していました。
しかしよく似(に)た設定(せってい)の「レインボー戦隊(せんたい)ロビン」が東映動画(とうえいどうが)で企画されたために、仕方(しかた)なく、タイトルはそのままで設定の大幅(おおはば)な変更(へんこう)を行(おこな)いました。
内容(ないよう)は海外(かいがい)スパイ映画(えいが)の「007」が流行(はや)っていたことを意識(いしき)して、星光一少年(ほしこういちしょうねん)が諜報部員(ちょうほうぶいん)として活躍(かつやく)する話でした。
主人公(しゅじんこう)の相棒(あいぼう)にさまざまな特殊能力(とくしゅのうりょく)を持つ宇宙(うちゅう)のリス、ボッコがたのですが。
なんとTBSの制作アニメ「宇宙少年(うちゅうしょうねん)ソラン」にボッコそっくりのリス「チャッピー」が登場(とうじょう)すると判明(はんめい)。
産業(さんぎょう)スパイを疑(うたが)われたソランの脚本(きゃくほん)を書いたT氏は、虫プロ社員(しょいん)でもありTBSにも出入りしていました。
またソランの原作漫画(げんさくまんが)を描いたM氏は、手塚治虫の元弟子(もとでし)でした。
なんとも灰色(はいいろ)な気がします(むやみに疑(うたが)ってはいけませんが)。
結局(けっきょく)しかたなく「ナンバー7」は「W3」と名前(なまえ)を変え、内容(ないよう)は大幅(おおはば)に変えざるをえませんでした。
遺恨(いこん)は続きます。

少年マガジンは創刊以来(そうかんいらい)の悲願(ひがん)、手塚治虫の連載(れんさい)をやっと叶(かな)えられます。
しかし連載することになった「W3」と同じマガジンに、因縁(いんねん)の「ソラン」原作バージョンが同時(どうじ)に連載されると知り、手塚治虫は激怒(げきど)します。
そりゃあ嫌(いや)ですよね・・。
「ソラン」の連載中止(れんさいちゅうし)を編集部(へんしゅうぶ)に申(もう)し立てますが受け入れられず、怒(おこ)った手塚先生は、連載6回目で中止(ちゅうし)。
続きを少年サンデーで連載することにします。
手塚治虫とマガジンの関係(かんけい)は一気(いっき)に悪化(あっか)。
以後9年間絶縁(ぜつえん)します。

また講談社(こうだんしゃ)との関係もその後長(なが)く悪(わる)くなります。
以降(いこう)、マガジンは手塚の嫌(きら)った劇画路線(げきがろせん)に走(はし)り、青年向(せいねんむ)け雑誌となり、手塚治虫は長い低迷期(ていめいき)をたどることになります。
ブラックジャックが連載されるまで、手塚治虫にとって長いスランプが続きました。
彼自身「冬(ふゆ)の時代(じだい)」だったと語(かた)っています。
読み手から古い時代の漫画家と思われ、多くの編集者(へんしゅうしゃ)たちも「手塚治虫はもうダメだ」と言っていたようです。
しかし彼はスランプの間(あいだ)も、ただひたすら描き続けていたのです。

1973年(昭和46年)虫プロが倒産(とうさん)。
手塚先生も個人(こじん)で一億(おく)5000万(まん)もの借金(しゃっきん)を背負(せお)うことになります。
どん底(ぞこ)だったこの年、手塚は、週刊少年(しゅうかんしょうねん)チャンピオンの編集長から声(こえ)をかけられます。
それは久(ひさ)しぶりの、短期(たんき)とはいえ連載の依頼(いらい)でした。
編集長の壁村は手塚治虫の漫画家としての最期(さいご)を看取ってあげたいという全くの好意から依頼をしたそうです。
しかし最期(さいご)のはずの連載(れんさい)が再起(さいき)へとつながります。
短期(たんき)読み切り連載だったはずの「ブラックジャック」は1話掲載(けいさい)されるごとに新(あら)たなファンをつかみ、長期(ちょうき)の連載へつながっていきます。
ブラックジャックでは1話に付き3話分のアイデアを出し、アシスタントさんや編集の方に一番いいものを選(えら)んで貰(もら)っていたそうです。
没(ぼつ)になった作品(さくひん)のなかにも素晴(すば)らしい話がたくさんあったのでしょうね。
全部(ぜんぶ)の話を読んでみたいです。

1974年には週刊少年マガジンで「三つ目(みつめ)がとおる」連載開始(れんさいかいし)
連載を中断(ちゅうだん)していた「火の鳥(とり)」連載再開(れんさいさいかい)。
「ブッダ」「ユニコ」など話題作(わだいさく)を連載。
手塚治虫は完全復活(かんぜんふっかつ)しました。

また旧来(きゅうらい)の漫画を文庫化(ぶんこか)するという動きが流行(りゅうこう)し、手塚治虫の埋(う)もれていた懐(なつか)かしい作品が次々と世(よ)に出て、従来(じゅうらい)のファン、新しいファンのハートをつかみます。
そして手塚治虫は「漫画の第一人者(だいいちにんしゃ)」「漫画の神様(かみさま)」と呼ばれだします。

1980年代、みずからのルーツを描いた「陽(ひ)だまりの樹(き)」で第29回小学館漫画賞(しょうがくかんまんがしょう)、「アドルフに告(つ)ぐ」で第10回講談社漫画賞一般部門(こうだんしゃまんがしょういっぱんぶもん)を受賞。

1988年(昭和63年)3月、胃(い)を壊(こわ)して入院(にゅういん)、手術(しゅじゅつ)。
5月に退院(たいいん)した後は以前(いぜん)のままに仕事(しごと)をしていましたが、11月、以前から招(まね)かれていた中国(ちゅうごく)の上海(しゃんはい)で行(おこな)われていた。
アニメーションフェスティバルに病身(びょうしん)をおして出席(しゅっせき)。
その直後(ちょくご)倒(たお)れます。
帰国(きこく)と同時(どうじ)に入院。
胃癌(いがん)だったのですが、当時の慣習(かんしゅう)で本人(ほんにん)には知らせていませんでした。
手塚先生は周囲(しゅうい)の反対(はんたい)を押(お)し切ってベッドの中で漫画を描き続けました。

1989年年が明(あ)けた頃から昏睡状態(こんすいじょうたい)に陥(おちい)りますが、時々目を覚(さ)ましては「鉛筆(えんぴつ)をくれ」と言い続けたそうです。
亡(な)くなる直前(ちょくぜん)も「頼(たの)むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとする手塚を妻(つま)が「もういいんです」と寝(ね)かせたといいます。
それが遺言(いごん)になりました。

昭和(しょうわ)から平成(へいせい)に変わった直後(ちょくご)の2月9日の10時50分に息(いき)を引き取りました。
100歳までは生きて描き続けたいと本人は願っていたのですが60歳の早すぎる死をむかえました。
まさしく昭和を駆(か)け抜けた天才漫画家(てんさいまんがか)でした。
お子さんは三人おられます。
長男(ちょうなん)は映像作家(えいぞうさっか)の眞(まこと)さん。
地球環境運動家(ちきゅうかんきょううんどうか)の長女のるみ子さん。
女優(じょゆう)の次女(じじょ)千以子さん。
長男さんと、長女さん、それに奥様(おくさま)が手塚治虫に関(かん)する本を出されています。
これは生前(せいぜん)の手塚治虫から未来(みらい)の子供(こども)たちに伝(つた)えた言葉(ことば)です。

私は、暗(くら)い時代(じだい)といわれた昭和初期(しょうわしょき)のなかでも、実(じつ)に恵(めぐ)まれた環境(かんきょう)で子ども時代をすごせたと思っています。
しかしそれも、青春期(せいしゅんき)には、空襲(くうしゅう)と窮乏生活(きゅうぼうせいかつ)によってほとんど失(うしな)ってしまいました。
父は戦争(せんそう)にとられるし、勉強(べんきょう)はできず、腹(はら)をすかせ、大勢(おおぜい)の友人(ゆうじん)を失(うしな)いました。
空襲(くうしゅう)に襲(おそ)われて周囲(しゅうい)が火と死体(したい)の山(やま)となったとき、絶望(ぜつぼう)して、もう世界(せかい)は終末(しゅうまつ)だと思ったものです。だから戦争の終わった日、空襲の心配(しんぱい)がなくなって、いっせいに町(まち)の灯(ひ)がパッとついたとき、私(わたし)は思(おも)わずバンザイをし、涙(なみだ)をこぼしました。
これは事実(じじつ)です。

心の底(そこ)からうれしかった。
平和(へいわ)の幸福(こうふく)を満喫(まんきつ)し、生きていてよかったと思いました。
これは、当時の日本人のほとんどの感慨(かんがい)だと思います。
もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器(ぶき)なんか持つまい、孫子(まごこ)の代までこの体験(たいけん)を伝(つた)えよう。

あの日、あの時代、生き延(の)びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです。
ことに家や家族(かぞく)を失(うしな)い、また戦争孤児(せんそうこじ)になった子どもたちは、とりわけそう誓(ちか)ったはずです。
それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府が、きな臭い方向に向かおうとしている。
子どもたちのために、当然(とうぜん)おとながそれを阻止(そし)しなければならないと同時(どうじ)に、子ども自身(じしん)がそれを拒否(きょひ)するような人間(にんげん)にはぐくんでやらなければならないと思うのです。
それは結局(けっきょく)、先に述(の)べたように、子どもに生きるということの喜(よろこ)びと、大切(たいせつ)さ、そして生命(せいめい)の尊厳(そんげん)、これを教えるほかないと思うのです。
人命(じんめい)だけでなく生命あるものすべてを戦争の破壊(はかい)と悲惨(ひさん)から守(まも)るんだという信念(しんねん)を子どもにうえつける教育(きょういく)、そして子どもの文化(ぶんか)はそのうえに成(な)り立つものでなければならない。
けっして反戦(はんせん)だの平和だのの政治的(せいじてき)のみのお題目(だいもく)では、子どもはついてこない。率先(そっせん)して、生命の尊厳から教えていくという姿勢(しせい)が大事(だいじ)なのではないでしょうか。
手塚治虫の漫画やアニメで描き続けたテーマの一つはまさに「生命の尊厳」でした。

手塚治虫エピソード。
*たくさん描かれた漫画の全(ぜん)ページ、一コマ一コマまですべて記憶されていたようです。
アシスタントに電話(でんわ)で「○○の○ページの○コマ目の背景を(今描いている漫画の)○○の○ページの○コマ目に描いてくれ」など指示されていたそうです。
*いつでも締め切りに追われていて、移動中の車や飛行機の中でも原稿を描かれていたとか。
*チョコレートが好物(こうぶつ)で、「チョコレートが無いと絵が描けない!」とアシスタントに夜中(よなか)でも買いに行かせたそうです。
*締め切りから逃げて博多(はかた)まで逃亡(とうぼう)。
そのときには、漫画雑誌の投稿者(とうこうしゃ)から目星(めぼし)をつけた相手に電報(でんぽう)を打ち手伝いに来てもらったそうです。
(当時は住所(じゅうしょ)など連絡先(れんらくさき)が書かれていました)
その時に呼ばれた学生の中にはのちに「銀河鉄道(ぎんがてつどう)999」や「宇宙戦艦(うちゅうせんかん)ヤマト」の松本零士(まつもとれいじ)さんもおられました。

*新しいアシスタントにはこう言われていたようです「出来るだけ早くやめなさい」
「早く自分の漫画でデビューすることを目指しなさい」と。

手塚治虫の名言(めいげん)
「人を信(しん)じよ、しかし、その百倍(ひゃくばい)も自(みずか)らを信じよ」
「物語は、ここから始(はじ)まるのだ」
「好奇心(こうきしん)というのは、道草(みちくさ)でもあるわけです。確(たし)かに時間(じかん)の無駄(むだ)ですが、必(かなら)ず自分の糧(かて)になる」
「インプットがないのに、アウトプットは出来(でき)ません」
「ぼくたちは、かけがえのない地球(ちきゅう)に「同乗(どうじょう)」している、仲間(なかま)です」
「君(きみ)たち、漫画から漫画の勉強(べんきょう)するのはやめなさい。一流(いちりゅう)の映画(えいが)をみろ、一流の音楽(おんがく)を聞け、一流の芝居(しばい)を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ」
「「ダメな子」とか、「わるい子」なんて子どもは、ひとりだっていないのです。もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神(せいしん)が貧(まず)しいのだ」
「僕の体験(たいけん)から言えることは、好きなことで、絶対(ぜったい)にあきないものをひとつ、続けて欲(ほ)しいということです」


クイズ
手塚治虫先生の妹さんが生み出したなじみの手塚キャラクターは?


1、ヒゲ親父
2、ヒョウタンツギ
3、メルモちゃん

答え2

妹さんの落書きからうまれました。
手塚先生のいろいろな作品に登場して、緊張する場面のいきつぎなどになっています。
ちなみに手塚漫画の英訳版では「PATCH GOURD」、つぎひょうたんになっています。

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