ふくむすめどうわしゅう > なぞなぞ魔法学園 > 偉人のうんちくシリーズ オードリー・ヘプバーン
     
    
    オードリー・ヘプバーン
    
    4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)
「ドラマチックに生きた銀幕(ぎんまく)の妖精(ようせい)」オードリー・ヘプバーンうんちく
      
  のちに銀幕(ぎんまく)の妖精と言われ、アカデミー賞(しょう)、トニー賞、エミー賞、グラミー賞のすべてを受賞(じゅしょう)されたオードリー・ヘプバーン。
  映画の世界で人々を魅了し、今でもベストドレッサーとされる彼女ですが、スクリーンの中(なか)だけでなくデビュー前(まえ)、そしてスクリーンから去(さ)った後(あと)も輝(かがや)く美(うつく)しい花(はな)を咲(さ)かせた人(ひと)でした。
  
  1929年5月4日
    ベルギーブリュッセルで英国人(えいこくじん)とオランダ人の母(はは)のもとに生(う)まれます。
  名前(なまえ)はオードリー・キャスリーン・ラストンと名付(なづ)けられます。
  
  お父(とう)さんはオーストリア・ハンガリー帝国(ていこく)のボヘミア出身(しゅっしん)の貿易商(ぼうえきしょう)。
  ジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)
  
  お母さんはエラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)
    フリース人(ゲルマン人の中でオランダとドイツの北海沿岸(ほっかいえんがん)のフリースラントに居住(いじゅう)していた民族集団(みんぞくしゅうだん))の血(ち)を引(ひ)く、オランダ貴族(きぞく)でした。
    エラの父親(ちちおや)は男爵(だんしゃく)で、市長(しちょう)や総督(そうとく)を務(つと)めた政治家(せいじか)です。
  エラの母親(ははおや)もオランダ貴族の出身(しゅっしん)でした。
  
  ジョセフとエラはともに再婚(さいこん)で、ジョセフは以前(Izenn)もオランダ女性(じょせい)と結婚(けっこん)していました。
  
  エラは19歳(さい)のときに、ナイト爵位(しゃくい)を持(も)つヘンドリクと結婚したのですが、1925年に離婚(りこん)しています。
    エラとヘンドリクの間(あいだ)には、オードリーより8歳上と5歳上の兄(あに)アールノートと、イアンがいました。
    2人の兄は父親に引き取られています。
  のちにジョセフは「ラストン」という姓(せい)を貴族的にみられるようにヘプバーン=ラストンと二重姓(にじゅうせい)に改名(かいめい)しました。
  
  それは自分(じぶん)を、スコットランド女王(じょおう)メアリの三番目の夫である第4代ボスウェル伯(はく)ジェームズ・ヘプバーンの末裔(まつえい)であると信(しんじ)じ込(こ)んでいたことからですが、本当(ほんとう)の所(ところ)そんな事実(じじつ)はないようです。
  ジョセフには貴族コンプレックスがあったのでしょうか?
  
  ジョゼフとエラは、1926年9月にジャカルタで結婚式(けっこんしき)を挙(あ)げました。
    その後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にオードリーが生まれると一家は1932年1月に同じベルギー内(ない)のリンケビークへと移住(いじゅう)します。
    オードリーはベルギー生まれですが、父ジョゼフの家系(かけい)を通(つう)じてイギリスの市民権(しみんけん)も持っていました。
    母の実家(じっか)がオランダだったことと、父親の仕事(しごと)がイギリスの会社(かいしゃ)と関係(かんけい)が深(ふか)かったこともあって、一家(いっか)はこのベルギー、オランダ、イギリスの三カ国(こく)を頻繁(ひんぱん)に行き来していました。
  そのおかげもあって、彼女は英語(えいご)、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を話(はな)せました。
  
  幼(おさな)い頃(ころ)の彼女(かのじょ)ははにかみ屋(や)で、自分(じぶん)の空想(くうそう)の世界(せかい)に閉(と)じこもって遊(あそ)ぶのが好(す)きだったそうです。
    音楽(おんがく)、ベートーヴェンやバッハをことに愛(あい)していたようです。
  そしてバレリーナを夢見(ゆめみ)ていました。
  
  ヘプバーンの両親は1930年代にイギリス*ファシスト*連合(れんごう)に参加(さんか)し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者(しんぼうしゃ)となっていった。
  
  *ファシズム
    独裁的(どくさいてき)な指導者(しどうしゃ)や暴力(ぼうりょく)による政治(せいじ)などを指(さ)します。
  ファシストはファシズム主義(しゅぎ)の人です*
  
  1935年ジョゼフは子供(こども)たちの子守(こも)りと性的関係(せいてきかんけい)を持っており、エラがこのことを知(し)ると、ジョゼフは家庭(かてい)を捨(す)てて出て行ってしまいます。
    その時オードリーは6歳でした。
    父親っ子だったオードリーはロンドンでお父さんの元(もと)で暮(く)らします。
    英語は母国語(ぼこくご)ほどには話せなかったので、ますます自分の殻(から)に閉(と)じこもるようになったと言います。
    夫に捨てられたエラは故郷のアーネムへ戻ります。
  孤独(こどく)だった少女(しょうじょ)は9歳でバレエを習(なら)いだし熱中(ねっちゅう)します。
  
  1937年にはイギリスへ。
    小(ちい)さな村(むら)の女学校(じょがっこう)に入学(にゅうがく)します。
  オードリーはクラスの14人の女の子たちのまとめ役(やく)だったと言います。
  
  1939年
    ヒットラーがポーランドへ進行(しんこう)して第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)が始(はじ)まります。
    ナチスはイギリスにも兵(へい)を進(すす)めるかもしれない。
    元夫(もとおっと)のジョセフがナチの信望者(しんぼうしゃ)ということが娘(むすめ)に悪(わる)い影響(えいきょう)を与(あた)えるのではないかと心配(しんぱい)したエラは、法廷(ほうてい)で親権(しんけん)を争(あたそ)い勝訴(しょうそ)。
  オランダのアルンヘルムという小さな町にオードリーを連(つ)れて帰(かえ)ります。
  
  エラは夫と反対(はんたい)に熱心(ねっしん)な反(はん)ナチでした。
    同時(どうじ)に男爵(だんしゃく)の称号(しょうごう)を持っているためにナチからの迫害(はくがい)を恐(おそ)れていました。
    小さな町で娘と戦争(せんそう)に影響(えいきょう)されることなく穏(おだ)やかに生きようとエラは思ったのかもしれません。
    当時(とうじ)のオランダは中立国(ちゅうりつこく)で、ドイツの侵略(しんりゃく)から安全(あんぜん)だと思(おも)われていたためです。
    しかし皮肉(ひにく)なことにドイツ国境(こっきょう)のその町(まち)は激(はげ)しい戦火(せんか)にのみこまれていくことになります。
  少女のオードリーはそんなことは知らず平和(へいわ)な街(まち)のアルンヘム学校(がっこう)でバレエを習(なら)い幸(しあわ)せでした。
  
  しかし、1940年(11)ドイツ兵(へい)たちが、オードリーの住む街にかかるアルンヘム橋(ばし)を渡(わたり)りオランダに侵攻(しんこう)します。
    そしてあっという間(ま)にオランダは第三帝国(だいさんていこく)の占領下(せんりょうか)におかれます。
  それは地獄(じごく)のような日々(ひび)の始(はじ)まりでした。
  
  ドイツ占領下のオランダで、オードリーというイギリス風(ふう)の響(ひび)きを持つ名前(なまえ)が危険(きけん)だとエラは心配(しんぱい)しました。
  それで娘(むすめ)にはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名(ぎめい)を名乗(なの)るように言います。
  
  1942年
    オードリーの祖父(そふ)の領地(りょうち)や財産(ざいさん)がナチスに没収(ぼっしゅう)されます。
    母の姉(あね)の貴族(きぞく)だったミーシェの夫(おっと)は、反(はん)ドイツのレジスタンス活動(かつどう)に参加(さんか)したとされ、オードリーと母エラの目(め)の前(まえ)で処刑(しょけい)されます。
    13歳の少女と、娘を1人で守(まも)る母親にとってそれはどんなに恐(おそ)ろしかったことでしょう。
    オードリーの父違(ちちちが)いの2人の兄たちもレジスタンス活動に参加。
    ナチスに抵抗(ていこう)します。
  しかし捕(つか)まり長兄(ちょうけい)のイアンはベルリンの強制労働収容所(きょうせいしゅうようじょ)に送(おく)られ、次兄(じけい)のアーノルドも狙(ねら)われますが寸前(すんぜん)に身(み)を隠(かく)します。
  
  オードリーとエラは、アルンヘムの駅(えき)でドイツ兵が、家畜(かちく)を運(はこ)ぶ、せまい貨車(かしゃ)に、ユダヤ人(じん)たちを男女別(だんじょべつ)に、家族(かぞく)もばらばらに引き裂(さ)かれ乗(の)せられるのを目撃(もくげき)します。
  このころ、隠れ家(かくれが)で日記(にっき)を書(か)き続(つづ)けていたユダヤ人の少女(しょうじょ)アンネフランクはオードリーと同(おな)じ年の13歳でした。
  
  当時をオードリーはこう語っています。
    「駅で貨車に詰(つ)め込まれて輸送(ゆそう)されるユダヤ人たちを何度(なんど)も目にしました。はっきりと覚(おぼ)えているのが、一人の少年です。青白(あおじろ)い顔色(かおいろ)と透(す)き通(とお)るような金髪(きんぱつ)で、
  両親(りょうしん)と共(とも)に駅のプラットフォームに立ち尽(つ)くしていました。そして、身(み)の丈(たけ)にあわない大きなコートの少年は列車(れっしゃ)の中へとのみ込まれていきました。そのときの私は少年を見届(みとど)けることしかできない無力(むりょく)な子供(こども)だったのです」
  
  母のエラは元夫と違い熱心(ねっしん)な反ナチ派でした。
    地下活動(ちかかつどう)、レジスタンスに参加(さんか)するようになり、オードリーもバレエの公演(こうえん)で資金集(しきんあつ)めをします。
    時(とき)にはトゥシューズに秘密(ひみつ)の手紙(てがみ)を隠(かく)して届(とど)けたりもしました。
  また音楽学校(おんがくがっこう)で、年下(としした)の少女たちにバレエやピアノを教(おし)えて生活(せいかつ)の足(た)しにしました。
  
  ある日街を歩いているときに、オードリーはナチスに捕(つか)まり連行(れんこう)されかけますが何とか逃亡(とうぼう)。
    地下(ちか)に逃(にげ)げ込みます。
  もし逃亡できていなかったとしたら、銀幕のスターオードリー・ヘップバーンは存在(そんざい)していなかったでしょう。
  
  栄養失調(えいようしっちょう)で動(うご)けなくなった彼女は、チューリップの球根(きゅうこん)すら掘(ほ)り返(かえ)し口にしたと言います。
    人びとは戦乱(せんらん)の中、なんとか生き残(のこ)ろうと、ギリギリの命(いのち)の灯(ひ)をともしていました。
  しかし残酷(ざんこく)にもさらに戦況(せんきょう)は悪化(あっか)していきます。
  
  14歳の時に、アルンヘムが戦場(せんじょう)になります。
    イギリス陸軍(りくぐん)約8000人がアルンヘム橋(ばし)周辺(しゅうへん)にパラシュート降下(こうか)。
    襲撃(しゅうげき)を開始(かいし)しますが、作戦(さくせん)は失敗(しっぱい)。
    かって楽しくバレエを踊(おど)り暮(く)していた町は破壊(はかい)されつくします。
    死体(したい)が山と重(かさ)なり、死臭(ししゅう)が街を覆(おお)いつくし地獄絵(じごくえ)のようだったといいます。
    ドイツ軍はアルンヘムの町の人々がイギリス軍の味方(みかた)をするのを警戒(けいかい)して、生き残った人々を町から追い出します。
    オードリーと母、そして隠(かく)れていた次兄(じけい)のイーアンは田舎家(いなかや)に逃げ込みます。
    しかしイーアンはドイツ側の戦力(せんりょく)にするためにナチスに連れ去られます。
  オードリーと母エラは餓死寸前(がしすんぜん)の状態(じょうたい)でした。
  
  1945年の春
  連合軍(れんごうぐん)がアルンヘムに進撃(しんげき)。
  
  5月4日
    彼女の15歳の誕生日、オランダは約5年ぶりに解放(かいほう)されました。
    その時オードリーはやせ細(ほそ)り、歩(ある)くことさえできなくなっていたと言います。
  ユニセフの前身(ぜんしん)の国連救済復興機関(こくれんきゅうさいふっこうきかん)から救援物資(きゅうえんぶっし)が配(くば)られ、甘(あま)いチョコレートを口にしたオードリーは涙(なみだ)が止まりませんでした。
  
  第二次世界大戦後
    次兄のイーアンは無事(ぶじ)に戻(もど)ってきましたが、廃墟(はいきょ)と化(か)したアルンヘムには住(す)めず、一家(いっか)はアムステルダムへ引(ひ)っ越(こ)しました。
    3人は平和(へいわ)な生活の中で徐々(じょじょ)に弱(よわ)った体(からだ)を癒(いや)し、エラは料理人兼家政婦の職を見つけました。
    彼女はバレエが大好(だいす)きで才能(さいのう)もある娘に一流(いちりゅう)の先生のもとでバレエを習(なら)えるようにしてやりたいと願(ねが)っていました。
    そこで彼女は少ない給料(きゅうりょう)の一部(いちぶ)をさいて、オランダ一の腕(うで)を持つというバレエの教師(きょうし)ソニア・ギャスケルのもとへ通(かよ)わせだしました。
    オードリーはたちまちバレエに夢中(むちゅう)の生活になっていきます。
    しかし彼女にはロンドンで本格的(ほんかくてき)にバレエを習いたいという夢(ゆめ)がありました。
  そのチャンスは19歳で訪(おとず)れます。
  
  1948年(19歳)
    教育用(きょういくよう)の旅行(りょこう)フイルム「オランダの七つの教訓(きょうくん)」という作品(さくひん)のスチュワーデスの役(やく)が公募(こうぼ)され、オードリーはこれに合格(ごうかく)。
    初(はじ)めての映像作品(えいぞうさくひん)に出演(しゅつえん)が決まります。
  その出演料(しゅつえんりょう)とお母さんが細々(ほそぼそ)とためたお金で親子(おやこ)はロンドンに渡(わた)りました。
  
  ロンドンでエラは室内装飾(しつないそうしょく)の仕事(しごと)を見つけ、オードリーも事務(じむ)のアルバイトや広告(こうこく)のモデルをしながらオランダでのバレエの先生ソニアの紹介(しょうかい)で、バレエの名門(めいもん)マリー・ランバート・バレエ団(だん)で学(まな)ぶことになります。
    オードリーは厳(きび)しい特訓(とっくん)にひたむきな努力(どりょく)で耐(た)えます。
    しかしランバートは、残酷(ざんこく)なことにオードリーが170㎝という長身(ちょうしん)と成長期(せいちょうき)の栄養不足(えいようぶそく)から、プリマドンナになるのは難(むず)しいかもしれないと伝(つた)えます。
    オードリーはそれを信(しん)じ、プリマドンナへの道(みち)をあきらめ、バレエの次に興味(きょうみ)を持っていた演劇(えんげき)の世界(せかい)に飛び込むことを決意(けつい)します。
  辛(つら)い助言(じょげん)で逆(ぎゃく)に新しい道が開(ひら)けたのです。
  
  しかしその時オードリーはバレエの腕を生かして、舞台(ぶたい)でコーラスガールをすれば、下働(したばたら)きで家計(かけい)を支(ささ)えるお母さんを助(たす)けられると思ってたのです。
    自分が伝説(でんせつ)の大女優(だいじょゆう)になるとは思ってもいなかったことでしょう。
    しかしいくつかの舞台に立った後、自身(じしん)の声質(せいしつ)が舞台女優(ぶたいじょゆう)としては弱(よわ)いことを知ります。
  そこで発声練習(はっせいれんしゅう)を続(つづ)けながらも、映画(えいが)のエキストラや端役(はやく)もするようになりました。
  
  最初は通行人(つうこうにん)などの端役。
    やがてバレエの腕を見込(もこ)まれ「初恋(はつこい)」で準主役(じゅんしゅやく)に抜擢(ばってき)されました。
    そこでオーレリーは主人公(しゅじんこう)の妹(いもうと)のバレリーナ役で見事(みごと)なバレエシーンを演じています。
    その頃彼女には恋人(こいびと)がいました。
    裕福(ゆうふく)な家柄(いえがら)の29歳の美男子(びなんし)ジェームズはオーレリートの結婚(けっこん)を希望(きぼう)しますが、せっかく女優として道が開けてきた時、家庭(かてい)におさまるのか夢を追うのか・・・。
  心(こころ)は揺(ゆ)れます。
  
  1951年迷(まよ)いながらもアメリカとフランスで公開(こうかい)される「モンテカルロに行こう」のロケに行きます。
    彼女は行方不明(ゆくえふめい)の赤ちゃん探(さが)しに巻き込まれる役という準主役(じゅんしゅやく)でした。
    その場所(ばしょ)で奇跡(きせき)ともいえる偶然(ぐうぜん)の出会いがありました。
    自分の書いたブロードウェイ戯曲(ざきょく)のヒロインを探(さが)していたフランス女流作家(じょりゅうさっか)シドニー・ガブリエル・コレットは、オードリーを見るなり「私のジジを見つけたわ!」とつぶやいたそうです。
    同時期(どうじき)ロンドンでウイリアム・ワイラー監督(かんとく)の「ローマの休日」のアン王女(おうじょ)探しが行われていました。
    すでにジジ役が決まっていたオードリーは軽(かる)い気持ちでフイルムテストを受けました。
    眠(ねむ)っていたアン王女が子猫(こねこ)のようにのびをするシーン。
    撮影(さつえい)が終わった後、実(じつ)は少しの間フイルムが回り続けていたのですが、それに気づいたオーレリーはカメラに近づき、いたずらっ子のように大笑(おおわら)い。
    製作者(せいさくしゃ)は、最初ヒロイン役に高貴(こうき)なイメージからエリザベス・テイラーを望(のぞ)んでいました。
    しかしフイルムテストをローマで見た監督は「この娘だ!」と叫(さけ)び、すぐにオーレリーをアン王女役に決(き)めたと言います。
    とつぜんに二つの大役(たいやく)を得(え)たオーレリー。
    まず「ジジ」が1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアターで初演(しょえん)を迎(むか)えます。
    初めてのヒロインでした。
  オードリーはこのジジ役で、ブロードウェイで初舞台の優(すぐ)れた舞台俳優(ぶたいはいゆう)に贈(おく)られるシアター・ワールド・アワード  を受賞(じゅしょう)しています。
  
  次いで「ローマの休日」の撮影。
    作品(さくひん)はローマが舞台で、ヒロインはヨーロッパ某国(ぼうこく)の王女アン。
    王女が王族(おうぞく)の窮屈(きゅうくつ)な暮らしから逃げ出し、アメリカ人新聞記者(しんぶんきしゃ)と恋(こい)に落ちるロマンチックな話です。
    製作当初(せいさくとうしょ)のフィルムでは、主演男優(しゅえんだんゆう)のグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表示(ひょうじ)され、オードリーの名前小さく、ペックの名前の下に置(お)かれていました。
  しかしペックがワイラーに「変えるべきだ。彼女は僕(ぼく)とは比(くら)べ物にならないような大スターになる」と言い、自分と同じ大きさにしたといいます。
  
  1953年に「ローマの休日」は公開され、たちまち大評判(だいひょうばん)になりました。
    アン王女役は評論家(ひょうろんか)からも大衆(たいしゅう)からも大絶賛(だいぜっさん)されます。
    アカデミー主演女優賞受賞(しゅえんじょゆうしょうじゅしょう)。
    ほかにも英国(えいこく)アカデミー最優秀主演英国女優賞(さいゆうしゅうしゅえんえいこくじょゆうしょう)、ゴールデングローブ主演女優賞を受賞します。
    そんな中、婚約(こんやく)していたジェームズとは別(わか)れます。
    彼は旧式(きゅうしき)な考え方の男性で、結婚したら妻は家庭(かてい)に収(おさ)まるものと思っていました。
    しかしオードリーは女優として生きようと決心(けっしん)します。
    母のエラも娘がせっかくつかんだ成功を離(はな)すとは考えられず娘を後押(あとお)ししました。
    彼女はパラマウント映画社(えいがしゃ)から、7本の映画に出演(しゅつえん)することと映画撮影の合間(あいま)には合計12カ月間の舞台出演を認(みと)めるという条件(じょうけん)で契約(けいやく)にサインします。
  無名(むめい)の少女はあっという間に栄光(えいこう)への階段(かいだん)を上がっていきます。
  
  続(つづ)いて「麗(うるわ)しのサブリナ」に出演。
    1954年に公開(こうかい)されたこの作品は、富豪(ふごう)の兄弟(きょうだい)が、お抱(かか)え運転手(うんてんしゅ)の娘で美(うつく)しく成長(せいちょう)したサブリナを巡(めぐ)って争(あらそ)うという物語(ものがたり)です。
    オードリーはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞しました。
  相手役(あいてやく)の大スターウイリアム・ホールデンは現実(げんじつ)でもオーレリーを愛しますが彼女は別(べつ)の男性に恋をしました。
  
  「麗しのサブリナ」と時期(じき)を同じくしてブロードウェイの舞台作品(ぶたいさくひん)「オンディーヌ」でオードリーの最初の夫になるメル・フェーラーと共演(きょうえん)。
    物語は人間の騎士(きし)ハンスと水の精(せい)との恋愛悲劇(れんあいひげき)の物語でオードリーの妖精そのままの美しさは観客(かんきゃく)を魅了(みりょう)しました。
    メル・フェーラーとは「ローマの休日」の後のパーティーで相手役だったグレゴリー・ペックの紹介(しょうかい)で知り合いました。
    彼はキューバ人とスペイン人の血の流(なが)れる父親とアイルランド系アメリカ人の母親の生まれで小説(しょうせつ)や童話(どうわ)を書いたり、ブロードウェイで踊(おど)ったり、ある時は戯曲(ぎきょく)を書き、またある時は演出(えんしゅつ)をし俳優(はいゆう)でもあり、よく言えば多才(たさい)、悪(わる)く言えば移(うつ)り気でした。
    すでに三度の離婚歴(りこんれき)がありました。
    しかしオードリーは彼の出演映画「リリー」を2度も見にいくほどのファンで出会ってすぐに意気投合(いきとうごう)しました。
    そこでメルの提案(ていあん)したブロードウェイの「オンディーヌ」に喜(よろこん)んで共演(きょうえん)。
    妖精(ようせい)のヒロインの役はもともと妖精のような美しさを持つオードリーのはまり役でトニー賞の主演舞台女優賞(しゅえんぶたいじょゆうしょう)を受賞しました。
  同年にトニー賞主演舞台女優賞とアカデミー賞主演女優賞をとったのは現在(げんざい)までに彼女を入れて三人だけです。
  
  1954年
    メル・ファーラーと最初(さいしょ)の結婚(けっこん)をします。
    あいにくの雨(あめ)の中スイスでの小さな教会(きょうかい)での静(しず)かな式(しき)でした。
    式を挙(あ)げたブルゲンストックは世界(せかい)でさいも贅沢(ぜいたく)なリゾートと言われていて2人はそこに新居(しんきょ)を構(かま)えました。
    二人の結婚生活(けっこんせいかつ)は15年続きました。
    結局(けっきょく)は別れてしまうとはいえ、移り気なメルと15年も続いたのは彼女の努力(どりょく)があったのでしょう。
    俳優同士(はいゆうどうし)の結婚は、離(はな)れ離れで撮影(さつえい)に臨(のぞ)む生活の中で一緒(いっしょ)にすごすことが少なく心を通わせ合うことが難(むずか)しいと彼女はわかっていました。
  そこで自分の撮影(さつえい)のスケジュールを気を付けて組(く)み、メルの撮影の時には同行(どうこう)するように気を付けました。
  
  1955年には「世界で最(もっと)も好かれた女優賞」を受賞。
    また映画や日常生活(にちじょうせいかつ)で見せる衣装(いしょう)はファッション界にも大きな影響力(えいきょうりょく)を持ちます。
    彼女のお気に入りのデザイナーは、ローマの休日で衣装担当(いしょうたんとう)で、意気投合(いきとうごう)し親友(しんゆう)になったイーディス・ヘッドと当時まだかけだしのジバンシーでした。
    撮影の時はパリからわざわざジバンシーを呼び、専門(せんもん)でない時代衣装(じだいいしょう)などもデザインさせたため映画担当(えいがたんとう)の衣装デザイナーを怒(おこ)らせたという話もあります。
  どこへ行っても何をしていても彼女のおしゃれなたたずまいは注目(ちゅうもく)を浴(あ)びました。
  
  この頃、第二次世界大戦当時、同じ年、同じオランダで隠(かく)れ家(が)に住んでいた少女アンネ・フランクの「アンネの日記(にっき)」の舞台作品と映画化作品両方(えいがかさくひんりょうほう)にアンネ役で出てくれないかとオファーがありました。
  
  しかし第二次世界大戦の記憶(きおく)は彼女の中でまだ生々(なまなま)しい心の傷(きず)でした。
    アンネのお父さんオットーが直接(ちょくせつ)、オードリーの元へ説得(せっとく)にあらわれ意気投合(いきとうごう)したものの出演は最後(さいご)まで断(ことわ)りました。
    一つには年齢的(ねんれいてき)に20代後半の自分が十代前半の役を演(えん)じるには無理(むり)があると思ったからともいいます。
  でもオードリーの演じるアンネを見て見たかったです。
  
  1956年にはロシアのトルストイの名作(めいさく)「戦争と平和(へいわ)」のヒロイン役で出演。
    英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネート。
    夫のメルが相手役(あいてやく)でした。
    しかしこの撮影(さつえい)の前、彼女は最初(さいしょ)の子供を流産(りゅうざん)してしまいひどく落ち込んでいました。
    子供好きの彼女は赤ちゃんをとても欲しがっていたのです。
    しかも戦争が背景(はいけい)の映画撮影(えいがさつえい)は、まだ第二次世界大戦の心の傷(きず)が癒(い)えていない彼女にとってとてもつらいものでした。
    毎夜のように悪夢(あくむ)にうなされたといいます。
  そんなことからか、マスコミには神経過敏(しんけいかびん)になり、取材(しゅざい)を極力(きょくりょく)さけていたといいます。
  
  1957年にはバレエの腕を生かしたミュージカル映画「パリの恋人」に出演。
    同じ年に「昼下(ひるさ)がりの情事(じょうじ)」出演。
    パリでの撮影は、夫メルと一緒にいられる貴重(きちょう)な時間でした。
    この頃から彼女は、撮影のためにホテルに部屋(へや)を取る時、大型(おおがた)トランクにいくつも自宅(じたく)で使っている日用品(にちようひん)や装飾品(そうしょくひん)などを持ち込み、ホテルの部屋に備(そな)え付けられているものと入れ替(か)えたといいます。
    これはオードリーの有名(ゆうめい)な習慣(しゅうかん)になりました。
    またこの頃、メルにプレゼントされたヨークシャーテリアをとてもかわいがりどこへでも連れて行きました。
  小さな犬は、子どもを亡くした心の傷を癒(いや)す存在(そんざい)でもありました。
  
  1959年には「尼僧物語(にそうものがたり)」出演。
    心の葛藤(かっとう)に悩(なや)む修道女(しゅうどうじょ)ルーク役を熱演(ねつえん)。
    オードリーは修道女役を演じるために、実際(じっさい)に修道僧(しゅうどうそう)らと修道院(しゅうどういん)に暮(く)らしたと言います。
    最初尼僧物語の舞台、アフリカのコンゴでの撮影を、彼女はとても嫌(いや)がっていました。
    しかし現地(げんち)に到着(とうちゃく)するやいなや、その地の風土(ふうど)にとても惹(ひ)かれたといいます。
    しかしなれない場所での撮影の疲労(ひろう)から腎臓(じんぞう)を弱らせて、ローマでの撮影に戻(もど)った時にはしばらく休養(きゅうよう)が必要(ひつよう)でした。
    このヒロイン役で3度目のアカデミー主演女優賞にノミネート。
    英国(えいこく)アカデミー賞最優秀主演英国女優賞受賞。
    オードリーとメルは舞台で演じた「オンディーヌ」を映画にしたいという夢があり、あちこちの映画会社に持ち込むなど、奔走(ほんそう)しますが当時、人間の少女ではなく水の妖精がヒロインというファンタジーが大衆(たいしゅう)に受けないのではないかとどこの映画会社も冷(つめ)たい反応(はんのう)でした。
    そこで妖精のような娘リーマがヒロインの「緑(みどり)の館(やかた)」を映画化することにしました。
    しかし「緑の館」は評判(ひょうばん)がよくありませんでした。
    一説(いっせつ)には監督(かんとく)で演出もしたメルのどこか冷めた性格が映画にも影響(えいきょう)し、どこか冷たい雰囲気(ふんいき)になったのではと言われています。
  こちらと前後して撮影された「尼僧物語」が彼女の映画作品中、一番の完成度(かんせいど)と言われているのと比(くら)べて寂(さび)しい結果(けっか)になってしまいました。
  
  1959年
    オードリーは前から西部劇(せいぶげき)に出てみたいと願(ねが)っていたのですが西部劇「許(ゆる)されざる者」に出演依頼(しゅつえんいらい)があり、飛びつきました。
    しかしこの時彼女は妊娠(にんしん)していました。
    馬(うま)に乗るシーン。
    撮影のフラッシュに驚いた馬がオードリーを振(ふ)り落とし彼女は脊髄(せきずい)を損傷(そんしょう)した(と言われ)ニ週間ほど休まなければならなくなりました。
    しかも悲しいことに二度目の流産をしてしまいます。
  *実際(じっさい)に脊髄を損傷していたらニ週間で治(なお)るようなものではないので間違(まちが)いだと思われます。
  
  同じ年。
    サスペンス映画の王様(おうさま)と言われるヒッチコックからの映画「判事(はんじ)に保釈(ほしゃく)はない」に出演依頼。
    ヒッチコックの映画に出ることは当時の女優の憧(あこが)れで、オードリーも台本(だいほん)を読むこともなく即諾(そくだく)します。
    しかし後日台本を読んだオードリーは驚愕(きょうがく)しました。
    ヒロインが公園(こうえん)に引きずり込まれレイプされるシーンがあったのです。
    この時、オードリーは流産したばかりで神経(しんけい)が過敏(かびん)になっていました。
    契約(けいやく)したにもかかわらず、そんな映画には出たくないと役を降(お)りてしまいます。
    当然ヒッチコックは激怒(げきど)。
    台本を捨て、その後オードリーを嫌(きら)い続けました。
    その後、オードリーは三度目の妊娠をし、今度は仕事を入れず万事(ばんじ)に備(そな)えました。
    そのかいがあり30歳にしてやっと元気(げんき)な赤ちゃんを抱(だ)くことが出来ました。
    その男の赤ちゃんにはショーンと名前が付けられました。
    オードリーは自分の赤ちゃんを持つことに結婚前から執着(しゅうちゃく)していました。
  やっと赤ちゃんが生まれた後、皮肉(ひにく)なことに、夫メルとの仲(なか)は冷(ひ)えていきます。
  
  出産三か月後の出演作品は「ティファニーで朝食を」
    チャーミングで奔放(ほんぽう)なヒロイン、ホリーの役はオードリーの当たり役でした。
    しかしオードリー自身(じしん)は「内向的(ないこうてき)な私には外交的(がいこうてき)な彼女の役は苦痛(くつう)でした」と言っています。
    撮影(さつえい)のために赤ちゃんのショーンと離(はな)れることも、彼女にとってとてもつらいことでした。
    それに誘拐(ゆうかい)も心配(しんぱい)でした。
    当時、ヨーロッパでは誘拐事件(ゆうかいじけん)が頻繁(ひんぱん)にあり、顔(かお)を知られて狙(ねら)われないために、息子(むすこ)をマスコミから遠(とお)ざけていました。
    結局撮影にはショーンも同行(どうこう)。
    撮影中は信頼(しんらい)しているイタリア人乳母(うば)に任(まか)せていました。
  それでも誘拐が心配で、下宿(げしゅく)の窓(まど)には鉄格子(てつこうし)をつけさせる念(ねん)の入れようでした。
  
  続けて「噂(うわさ)の2人」の撮影。
    オードリーの役はレズビアンを匂(にお)わせる女性教師役(じょせいきょうしやく)でした。
    その撮影に息子のショーンと、いつでもどこでも連れて行く愛犬(あいけん)フェマスを同行。
    しかし撮影中、フェマスが事故(じこ)にあい死んでしまいます。
    彼女は嘆(なげ)き悲(かな)しみ、撮影ができないほどでした。
  結局はメルがフェマスそっくりの犬「アッサムのアッサム」という犬をプレゼントして、ようやく彼女の気持ちは少し慰(なぐさ)められたようです。
  
  続いて「パリで一緒(いっしょ)に」撮影。
    相手役(あいてやく)は「サブリナ」のウィリアム・ホールデン。
    彼は今でもオードリーに猛烈(もうれつ)な片思(かたおも)いをしていて、叶(かな)わぬ恋(こい)に絶望(ぜつぼう)して呑(の)んだくれていました。
    撮影中にアルコール中毒(ちゅうどく)の治療(ちりょう)のため入院(にゅういん)したり、愛車(あいしゃ)をぶつけて怪我(けが)をして、監督(かんとく)を悩(なや)ませました。
  そんなホールデンとの恋人役が上手(うま)く演じられるわけもなく、作品は生気(せいき)のないものに仕上(しあ)がりました。
  
  次はヒッチコック風(ふう)のサスペンス「シャレード」出演。
    その頃、彼女にはぜひ演じたい役があって、マスコミの前でもそう話していました。
    それはブロードウェイで大ヒットロングラン公演中の「マイ・フェアレディ」のヒロイン、イライザ役でした。
    その少し前に、ジャック・ワーナーが大金(たいきん)を払(はら)って映画権(えいがけん)を買っていました。
    ブロードウェイでのイライザ役は当時無名(むめい)でヒロイン役に抜擢(ばってき)されたジュリ―・アンドリュースが演じていました。
    ファンにとってイライザと言えばジュリー・アンドリュースでした。
    彼女は素晴(すば)らしい歌声(うたごえ)と透明感(とうめいかん)あふれる魅力(みりょく)で観客(かんきゃく)を魅了(みりょう)していました。
    それにもかかわらずワーナーは、無名(むめい)の彼女をヒロイン役で映画に出させることに不安(ふあん)を感じていました。
    オードリーがイライザ役を切望(せつぼう)していると聞くと、マイ・フェアレディの劇中歌(げきちゅうか)の作詞家(さくしか)アランが猛反対(もうはんたい)したにもかかわらず。
    彼女に出演を依頼(いらい)します。
    望(のぞ)んでいたイライザ役にオードリーは有頂天(うちょうてん)になります。
    オードリーには100万ドルと興行収入(こうぎょうしゅうにゅう)の歩合(ぶあい)を支払(しはら)うという契約(けいやく)がされました。
  初の100万ドルのスター誕生(たんじょう)です。
  
  1963年
    オードリーは夫のメル、息子のショーン、乳母、愛犬アッサムのアッサムとそしてたくさんのトランクと共(とも)に意気揚々(いきようよう)とロサンゼルスに到着(とうちゃく)、撮影が始まりますが彼女は劇中歌を自分で歌えると思い、猛練習(もうれんしゅう)していたのですが、ほとんどを拭(ふき)替(か)えると知らされ大きなショックを受けます。
    後に吹替えを知っていたらイライザ役は引き受けなかったといっています。
    また監督のキューカーと美術係(びじゅつがかり)は頻繁(ひんぱん)にケンカをし、相手役のレックス・ハリソンはブロードウェイのヒギンズ教授(きょうじゅ)からそのまま採用(さいよう)されていたのですが、変わり物の性格(せいかく)を丸出(まるだ)し。
    オードリー自身もメルとの結婚生活が暗礁(あんしょう)に乗り上げていて撮影は順調(じゅんちょう)とは言えないものでした。
    それにもともとイライザを演じていたジュリーへのファンの同情(どうじょう)が深いあまり大衆(たいしゅう)の目はどこか冷(ひや)ややかでした。
  クリスマス直前に撮影は終わり関係を修復するためにメルとショーンとヨーロッパを旅行します。
  
  「マイ・フェアレディ」では吹替(ふきか)えもあり、作品自体(さくひんじたい)はアカデミー賞で8部門(ぶもん)を受賞していますが、オードリーは主演女優賞にノミネートすらされませんでした。
    皮肉ひにく)なことに舞台(ぶたい)でイライザ役だったジュリ―・アンドリュースが初の主演映画。
    ウォルト・ディズニーの「メリー・ポピンズ」で主演女優賞を得(え)ます。
    同情票(どうじょうひょう)だとも言われていますが彼女は後に「サウンドオブミュージック」のヒロインマリア役でその4オクターブとも言われる美しい歌声(うたごえ)と瑞々(みずみず)しい魅力(みりょく)で本物の実力(じつりょく)を発揮(はっき)します。
    とはいえ映画のオードリー版のイライザの妖精(ようせい)のような美しさは際立(きわだ)っていました。
    彼女自身の歌声で上映(じょうえい)されていたら、結果(けっか)はまた違(ちが)っていたかもしれません。
    実際(じっさい)「ティファニーで朝食(ちょうしょく)を」では彼女自身の歌声が使われています。
  ジュリーの4オクターブには叶(かな)わないものの、とても魅力のある歌声でした。
  
  1965年は「おしゃれ泥棒(Dorobou)」出演。
    相手役のピーター・オトゥールとは息がぴったりと合いロマンス説(せつ)まで流れますが、家庭(かてい)を大事にするオードリーなので淡(あわ)い恋どまりだったようです。
  その後三度目の流産(りゅうざん)。
  
  「いつも2人で」出演
    結婚生活に冷(さ)めた夫婦(ふうふ)の話しで、オードリーには今までにない新(あたら)しいリアルな役でした。
    彼女が嫌(いや)がったにもかかわらず水着(みずぎ)を着せられています。
    こちらでも夫役のアルバート・フィニーとロマンスが噂(うわさ)されています。
  本物の愛だったと証言(しょうげん)するスタッフもいました。
  
  その次は夫メルがプロデュースした「暗(くら)くなるまで待って」出演。
    盲目(もうもく)の人妻(ひとづま)の役で、実際に目の見えない人から演技指導(えんぎしどう)を受けて映画の評判(ひょうばん)も上々(じょうじょう)でした。
  しかしメルとの夫婦関係はどうしようもない所まできていました。
  
  1968年メルとの15年の夫婦生活は終わりを告(つ)げました。
    その年、友人の招(まね)きでギリシャの島々(しまじま)をめぐるクルーズに参加(さんか)したオードリーはそこで精神療法士(せいしんりょうほうし)。
    アンドレア・マリオ・ドッティ博士(はくし)と知り合います。
    博士はローマの資産家(しさんか)」の息子で30歳。
    若(わか)く機知(きち)にとんだ美男子(びなんし)でした(私はそうは思いませんが評判では美男子でした)。
    彼はオードリーよりも9歳も年下でしたが、積極的(せっきょくてき)なアプローチにたちまち夢中(むちゅう)になります。
    14歳の時にローマの休日を見て一目ぼれしていたといいます。
    結婚はトントン拍子(びょうし)に進(すす)みます。
    ショーンも彼を歓迎し、1969年1月式を挙(あ)げます。
  新居(しんきょ)はローマのアパートでした。
  
  1970年
    オードリーは帝王切開(ていおうせっかい)で次男(じなん)ルカを出産。
    しかし夫婦生活はうまくいっていませんでした。
    アンドレアは典型的(てんけいてき)なイタリアのプレイボーイでした。
    しょっちゅう美女(びじょ)との浮気写真(うわきしゃしん)を雑誌(ざっし)に載(の)せられ年上の妻を悩(なや)ませました。
  このころから息子たちのそばにいたいオードリーの、女優としての活動(かつどう)は減(へ)っていきます。
  
  1976年
    9年ぶりに映画「ロビンとマリアン」に出演。
    ショーン・コネリー扮(ふん)する年をとったロビン・フッドと恋人マリアンがかっての冒険(ぼうけん)の日々を懐(なつか)かしむストーリーです。
    撮影中、オードリーはもはや自分は古い時代(じだい)の女優だと痛感(つうかん)します。
    その後も夫の浮気は続き、息子たちの成長(せいちょう)だけを楽しみにするような生活だったといいます。
    映画出演は断(ことわ)り続けていましたが、旧友(きゅうゆう)テレンス・ヤングから「華麗(かれい)なる相続人(そうぞくにん)」の出演を依頼(いらい)され
    断わりきれず出ます。
    出演料(しゅつえんりょう)も良く、撮影をほとんど地元(じもと)で出来(でき)るというのも引き受けた理由(りゆう)でした。
    共演者(きょうえんしゃ)の一人ベン・ギャザラとの恋が噂(うわさ)になる中、夫ドッティとの関係は冷え切ります。
    そんなこともあり、ベン・ギャザラと恋人役の映画「ニューヨークの恋人たち」につづいて出演をすることになります。
    撮影が終わった後、その足でオードリーはドッティとの離婚(りこん)の手続きに入ります。
    ベン・ギャザラとの関係はそれ以上進まず、彼は別の女性と結婚します。
  また映画も、監督(かんとく)の付き合っていた女優が、夫に殺害(さつがい)されるという事件(じけん)があり、スキャンダルの中、公開(こうかい)は短期間(たんきかん)になってしまいました。
  
  1980年
    彼女は最後(さいご)の恋人(こいびと)ロバート・ウォルターズとパーティーで知り合います。
    彼は二年前に、10年寄(よ)り添(そ)った大スターの妻を病気(びょうき)で亡(な)くしていました。
    妻が病床(びょうしょう)についたあと、何年も適心的(てきしんてき)に尽(つ)くした夫として有名(ゆうめい)な人でした。
  彼には今までオードリーの夫となった男たちに欠(か)けていた包容力(ほうようりょく)があったのです。
  
  1987年
    テレビ映画で「おしゃれ泥棒2」に出演。
  オードリーの最後の映画はスピルバーグ監督作品「オールウェイズ」の天使(てんし)の役でした。
  
  1989年
    オードリーはユニセフ親善大使(しんぜんたいし)に就任(しゅうにん)します。
    そして当時最悪(さいあく)の食糧危機(しょくりょうきき)に陥(おちい)っていた戦争や貧困(ひんこん)の深刻(しんこく)な世界十数カ所をめぐりました。
    その国々はエチオピア、ソマリア、トルコ、ベトナム、バングラデシュ、スーダン、ホンジュラスなどです。
    オードリーは飢(う)えや病気(びょうき)、戦争に苦(くる)しむ数多くの子供たちと接(せっ)し、励(はげ)まし、食料(しょくりょう)、薬品(やくひん)などの支援(しえん)。
  子どもたちの声を代弁(だいべん)し、各地(かくち)の悲惨(ひさん)で残酷(ざんこく)な現実(げんじつ)を世界に知らせました。
  
  その後、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園(ていえん)を紹介するというテレビドキュメントシリーズ、紀行番組(きこうばんぐみ)「オードリー・ヘプバーンの庭園紀行(ていえんきこう)」に出演。
    本放送(ほんほうそう)に先立(さきだ)って1991年3月に1時間のスペシャル番組(ばんぐみ)が放送されましたが、シリーズ本編(ほんぺん)の放送が開始されたのは彼女がこの世を去った1993年1月21日の翌日(よくじつ)からでした。
  最後の1本は1992年に発売(はつばい)された子供向け昔話(むかしばなし)を朗読(ろうどく)したアルバム「オードリー・ヘプバーン 魅惑(みわく)の物語」 です。
  
  ソマリア視察中(しさつちゅう)。
  オードリーは体調(たいちょう)を崩(くず)しますが、任務(にんむ)を最後まで果(は)たしたいと、自(みずか)らの痛(いた)みに耐(た)えました。
  
  しかし
    1992年の11月。
    緊急入院(きんきゅうにゅういん)。
    末期(まっき)の結腸癌(けっちょうがん)でした。
    死がすぐそこまで近づいていると悟(さと)った彼女はスイスに戻(もど)り、パートナーのウォルターと息子のショーンとルカに見守られて1993年1月20日。
    永遠(えいえん)の眠(ねむ)りにつきました。
    オードリーは生前(せいぜん)、ユニセフ活動(かつどう)についてこう話していました。
  「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言(しょうげん)できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後(ちょくご)に、食べ物や医療(いりょう)の援助(えんじょ)を受けた子どもの一人だったのですから」
  
  その後放送された「オードリー・ヘプバーンの庭園紀行」で、死後(しご)にエミー賞の情報番組個人業績賞(じょうほうばんぐみこじんぎょうせきしょう)を受賞。
    また「オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語」 でグラミー賞の「最優秀子供向(さいゆうしゅうこどもむ)けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞。
    オードリーは死後にグラミー賞とエミー賞を獲得(かくとく)した、数少ない人物の一人になりました。
    
    
  オードリー・ヘップバーンの名言
    「子供より大切なものなんてあるのかしら?」
    「オランダにはこんなことわざがあります。
    「くよくよしてもしかたがない。どのみち予想(よそう)したとおりにはならないのだから。本当にそう思うわ」
    「わたしにとって最高(さいこう)の勝利(しょうり)は、ありのままで生きられるようになったこと、自分と他人(たにん)の欠点(けってん)を受け入れられるようになったことです」
    「チャンスなんて、そうたびたびめぐってくるものではないわ。だから、いざめぐってきたら、とにかく自分のものにすることよ」
    「死を前にしたとき、みじめな気持ちで人生を振(ふ)り返らなくてはならないとしたら、いやな出来事(できごと)や逃(のが)したチャンス、やり残したことばかりを思い出すとしたら、それはとても不幸(ふこう)なことだと思うの」
    「どんな人でも、不安(ふあん)がきれいに消えるということはないと思うの。成功(せいこう)すればするほど、自信は揺(ゆ)らぐものだと思うこともある。考えてみれば、おそろしいことね」
    「いわゆる天賦(てんぷ)の才(さい)に恵(めぐ)まれていると思ったことはないわ。仕事を心から愛して最善(さいぜん)を尽くしただけよ」
    「わたしを笑(わら)わせてくれる人をわたしは大事にしますわ。正直なところ、わたしは笑うことが何よりも好きなんだと思う。悩(なや)ましいことが沢山(たくさん)あっても笑うことで救われる。それって、人間にとって一番大事なことじゃないかしら」
    「愛は行動(こうどう)なのよ。言葉だけではだめなの。言葉だけですんだことなど一度だってなかったわ。私たちには生まれたときから愛する力が備(そな)わっている。それでも筋肉(きんにく)と同じで、その力は鍛(きた)えなければ衰(おとろ)えていってしまうの…」
    「何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです」
  「幸福のこんな定義(ていぎ)を聞いたことがあります。『幸福とは、健康(けんこう)と物忘(ものわす)れの早さである』ですって! わたしが思いつきたかったくらいだわ。だって、それは真実(しんじつ)だもの」
  
  
  
  クイズ
  オードリーが主演女優賞をとった映画は?
  
  
  1、ローマの休日
    2、アンネの日記
    
    
    
  答え1
  
  
  1953年に公開された「ローマの休日」のアン王女役でアカデミー主演女優賞を受賞しました。
  アンネの日記の出演依頼は断ってしまいましたがもし出演していたなら二つ目の主演女優賞を手に出来たかもしれません。