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マザーテレサ
マザーテレサ
4kサイズ(3840×2160)  4kサイズぬり絵(3840×2160)

「神への信仰と貧しい人々の救済に人生をささげた修道女」

マザーテレサは(本名はアグネサまたはアグネス/アンティゴナ・ゴンジャ・ ボヤジ)1910年8月26日、旧オスマン帝国領((ていこくりょう) コソボ州(しゅう)に生まれます。
(現在(げんざい)はマケドニアのスコピエ)

お父さんのニコルは少数民族(しょうすうみんぞく)のアル― メニア人、お母さんのドラナはルーマニア人です。
お父さんは地元の名士(めいし)で実業家(じつぎょうか)でした。
アルバニア独立運動(どくりつうんどう)の闘志(とうし) だったのですが、45歳で急死(きゅうし)します(政敵(せいてき)に毒殺( どくさつ)されたとも言います。

コソボは1912年にはセルビアの一部になり、1918年にはユーゴスラビア王国、2006年には再び独立(どくりつ)した。
セルビア共和国(きょうわこく)の一部になっています。

近代史(きんだいし)においてコソボは、セルビア人とアルバニア人との争(あらそ) いをくりかえしていました。
一方で中世(ちゅうせ)に建設(けんせつ)された、ゆいしょある聖堂(せいどう)や修道院(しゅうどういん) が数多く残されていて、セルビア正教(せいきょう)の聖地(せいち)とされています。
テレサは3人兄弟の末っ子で6歳上の姉と3歳上の兄がいました。
彼らからは「ゴンジャ(アルバニア語で小さな花という意味)」 とよばれていました。

両親はカトリック教徒ですが、周りはイスラム教や正教徒が多く、テレサの一家の信仰(しんこう)は珍(めずら)しいものでした。
信仰に厚(あつ)く裕福(ゆうふく)であったために、貧しい人への施(ほどこ)しを積極的(せっきょくてき) にしたと言います。
マザーテレサの幼い頃の性格については、詳しいことはわかっていませんが、聡明(そうめい)な子だったと言います。
12歳の時にはすでに将来(しょうらい)、修道女(しゅうどうじょ)としてインドで働きたいという望みを持っていたようです。

18歳で教会から許され故郷(こきょう)をはなれ、アイルランドでロレト修道女会に入りました。
ロレト修道女会は女子教育に熱心で、テレサも基礎教育(きそきょういく)を学びます。

そして1931年19歳で修錬女(しゅうれんじょ)(修道女になる手前の状態)として、インドのダージリンに赴(おもむ)き、修道名テレサをなのります。

この名前は「リジュ―のテレーズ」からもらったそうです。
*「リジューのテレーズ」
高い信仰心で16歳で修道会に入り、24歳で亡くなる守護聖人(しゅごせいじん)としてたたえられています。
インドシナに宣教活動(せんきょうかつどう)に行きたいと願いながら、体が弱くてはたせなかったといいます。

彼女はまたの名を小さき花のテレジアと呼ばれていました。

1929年(17歳)〜1947年(35歳) までインドのカルカッタの聖マリア学院で地理(ちり)と歴史(れきし)を教えていました。
地理は得意(とくい)で、ユニークで楽しい授業(じゅぎょう)は子供達に人気だったといいます。

しかし当時のインドで、 女の子で学校に通えるのはお金持ちだけでした。
テレサの目は、学院(がくいん)のそとの貧(まず)しい人々にむいていました。

そして運命(うんめい)の1946年。
34歳の時に、彼女に運命的な出来事(できごと)がおきます。

9月、休暇(きゅうか)のために避暑地(ひしょち)でもあるダージリンに向かう汽車(きしゃ)の中で突如(とつじょ)神の啓示(けいじ)をうけます。

彼女の前に現(あらわ)れたイエスキリストは、「全(すべ)てを捨(す)て、際(さい)も貧しい人の間で働( はたら)くように」と伝(つた)えます。
テレサは修道院を離れて貧しい人々のために活動をする決心をします。
この不思議(ふしぎ)な神の啓示はナイチンゲールやジャンヌダルクも経験しています。
科学者(かがくしゃ)たちは幻(まぼろし) や思い込みだと言いますが、ナイチンゲールもジャンヌダルクもそしてテレサも、その神からの言葉を一途(いちず)に信じ、誰もいきえない道を、信じるがまままっすぐ進みました。

1948年(36歳)ようやく教皇(きょうこう) ピウス12世から修道院から出て活動する許可を得てカルカッタのスラム街に移り住みます。
インドの女性の着る質素なサリーを身にまとい、てはじめに学校にいけないホームレスの子供たちのために街頭(がいとう)で無料授業(むりょうじゅぎょう)をおこないます。
やがてテレサの元に、聖マリア学院の教え子たちがボランティアとして集まりだします。
教会や地域の名士から寄付(きふ)もあつまるようになり、彼女の活動はじわじわと広がりを見せはじめます。

1950年(38)修道院設立(しゅうどういんせつりつ) の許可が出て「神の愛の宣教者会(せんきょうしゃかい)」ができます。
「飢(う)えた人、裸(はだか)の人、家のない人、体の不自由(ふじゅう)な人、病気(びょうき)の人、必要(ひつよう)とされることのないすべての人、愛されない人、誰からも世話されてない人のために働く」
これが会の信条(しんじょう)でした。
そしてテレサは修道会のリーダーとして、マザーを付けて「マザーテレサ」と呼ばれるようになりました。

インド政府(せいふ)の協力(きょうりょく)で「死を待つ人々の家」というホスピスを建(た)て、道に捨てられ死を待つだけの人々を集め手厚(てあつ)く世話をしました。
ホスピスのコンセプトは「せめて死ぬ時ぐらいは、人間らしく」 です。
インドは現在もカースト制度(せいど)があり、階級(かいきゅう)の差(さ)が激(はげ)しいのです。

貧しい人々は家もなく、病気をしても道に打ち捨てられていました。
カースト制度は強固(きょうこ)なもので底辺(ていへん)に位置付けられた人が、 はいあがることはゆるされません。
カースト制、女性への差別は国際社会(こくさいしゃかい)でも非難(ひなん)の対象(たいしょう)になっています。
ホスピスに集められた人々は、2〜3日で息(いき)を引き取るほど弱っていたと言います。
埋葬(まいそう)はキリスト教にこだわらず、無くなった本人の宗教(しゅうきょう)に合わせられました。

1960年代には彼女の活動は全インドに、やがて世界中に広がります。
1969年にはマザーテレサを主題(しゅだい)にしたドキュメンタリー映画「すばらしいことを神様のために」という映画が作られ、彼女にすっかり感銘(かんめい)を受けた監督(かんとく)はのちにカトリック教徒になります。
1971年教皇パウロ6世は自(みずか)らが作った「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受賞者(じゅしょうしゃ)にテレサを選びます。
続いてケネディー賞1985年アメリカ合衆国大統領自由勲章(がっしゅうこくだいとうりょうじゅうくんしょう)、アメリカ合衆国名誉市民(めいよしみん)など次々(つぎつぎ)と授与(じゅよ)されます。
その中でも1979年ノーベル平和賞(へいわしょう)を授与されたことは有名( ゆうめい)です。
華(はなや)やかな授与式に、テレサはいつもどおりの質素(しっそ)な白い木綿(もめん)のサリーで出席(しゅっせき)しました。
賞金(しょうきん)19万2000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われました。

その時のマザーテレサの言葉です。
「私のための晩(ばん)さん会は不要(ふよう)です。その費用(ひよう)はどうか貧しい人々のためにお使いください」

インタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と聞かれ、「家に帰って家族を愛してあげなさい」と答えたそうです。
身近な人を愛することがやがては世界の平和につながるということ なのでしょうね。
1983年、ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪(おとず) れたローマで心臓発作(しんぞうほっさ)を起こしペースメーカーをつけることになります。
1993年には転倒(てんとう)してくびの骨(ほね) にひびが入り、8月にはマラリアに。
1997年世界中が見守る中カルカッタのマザー・ハウスで87歳の生涯(しょうがい)を終えました。
当時「神の愛の宣教者会」 のメンバーは4000人を超えていました。
123か国の610カ所で活動を行っていました。
マザーテレサの活動は「ホスピス」「HIV患者のための家」「ハンセン病者のための施設」「吹き出し(たきだし)施設」「児童養護施設(じどうようごしせつ)」「学校」など多岐(たき)にわたります。

1997年9月彼女の葬儀(そうぎ) はインド政府により国葬として荘厳に行われました。
国葬はインドではとても珍しく、独立の父マハトマ・ガンジー、初代(しょだい)ネール首相(しゅしょう)についで三人目でした。
インドで政治的指導者や首相以外で国葬(こくそう)されたのはテレサと2011年に死去(しきょ)したサティヤ・ サイババだけです。

葬儀には様々な宗教の代表者が参列(さんれつ)しました。
宗教の枠(わく)を超え世界中の人々から尊敬されていたことを象徴(しょうちょう)しています。

また2003年には福者(ふくしゃ)に、2016年には聖人(せいじん)に列聖(れっせい)されています。
(死後、奇跡(きせき)を1度起こすと福者、 2度起こすと聖人になります。マザーテレサの場合も、彼女を信仰する重病者( じゅうびょうしゃ)が奇跡的に回復(かいふく)したことから、奇跡を起こしたと言われています。)

34歳で神を見、その言葉のままに信念(しんねん)を貫( つらぬ)いたテレサですが、実は信仰に対する「心の闇(やみ)」が生涯(しょうがい)彼女を苦しめていたと言います。

死後、悩みを相談した神父への手紙の数々を集めたものが出版(しゅっぱん)され、彼女をただ真っ直ぐに神を信仰した聖女とみていた人びとに衝撃(しょうげき)をあたえました。

一部ですが手紙からの抜粋(ばっすい)です。
「私の魂(たましい)は、 深い闇と悲しみの中におかれたままです。でも私は不平(ふへい)を言うようなことはいたしません。神が望まれることはすべて、私をよういて成就(せいじゅ)していただきたいのです。」
「時々、寂(さび)しさの苦痛(くつう) があまりにも大きいのです。同時に、いなくなってしまった方(イエス)への思慕(しぼ)の情があまりにも深いのです。」

テレサの心の闇はどんなものだったのでしょう。
誰もが心に抱える孤独(こどく) や寂しさと同じものだったのでしょうか。

彼女は「家に帰って家族を愛してあげなさい」と言いました。
彼女自身は家族を持たず無私無欲(むしむよく)で人々のために働きました。

理想で固(かた)められたマザーテレサという像(ぞう)と本当の自分との開き、彼女は常(つね)に慰(なぐさ)める立場だったのですが、本当は誰かにやさしく抱きしめてほしかったのではないかと考えてしまいました。

それでも私の中で彼女はやはり強くやさしい聖女なのです。

マザーテレサの名言(めいげん)
「あなたはあなたであればいい」
「導(みちび)いてくれる人を待っていてはいけません。あなたが人々を導いていくのです」
「所有(しょゆう)すればするほど、とらわれてしまうのです。より少なく所有すれば、より自由でいられます」
「もし貧しい人たちが飢え死に(うえじに)するとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が与(あた)えなかったからです」
「今、この瞬間(しゅんかん)幸せでいましょう。それで十分です。その瞬間、瞬間が私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです」
「暗(くら)いと不平(ふへい)を言うよりも、あなたが進んで明かりをつけなさい」
「昨日は去りました。明日はまだ来ていません。わたしたちにはただ、今日があるのみ。さあ、始めましょう」
「愛の反対は憎しみではなく無関心(むかんしん)です」

マザーテレサの著書(ちょしょ)
「マザー・テレサ -神さまへのおくりもの-」
「生命あるすべてのものに」
「マザー・テレサ 日々のことば」
など

クイズ
インドで政治指導者(せいじしどうしゃ)や首相以外(しゅしょういがい)で国葬(こくそう) にされた人物は二人います。
1人はマザー・テレサ
もう一人は?

1サイババ
2アリババ

答えサイババ

サイババはインドのスピリッチャルリーダーで、無料の学校や病院を作るなど社会的奉仕(しゃかいてきほうし)でも活躍(かつやく)しました。
信望者(しんぼうしゃ)は国内外に数百万いたといいます。

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