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        日本の悲しい話 第23話 
         
          
         
石子づめになった子 
奈良県の民話 
       むかしから、奈良のシカは春日大社(かすがたいしゃ)の神さまのお使いだといって、とても大切にされてきました。 
 むかしむかし、この大社のすぐ西の興福寺(こうふくじ)という寺のわきに、寺子屋(てらこや)が一つありました。 
 ある日の事、子どもたちが手ならいをしていたとき、シカが一頭よってきて、三作(みのさく)という子の習字(しゅうじ)の紙を取って食べてしまったのです。 
「あっ! 返せ!」 
 三作は、手に持っていた筆(ふで)をシカに投げました。 
 ただおどろいて、かるい力で投げたのですが、でもその筆がシカの鼻に当たると、シカはドサッと庭さきに倒れてしまいました。 
 それっきり、シカは動きません。 
「シカが、死んでしもうた」 
「三作が、筆を投げて殺したんや」 
 子どもたちは、大騒ぎです。 
 お師匠(ししょう)さんも、青くなって飛んできました。 
 神さまのお使いであるシカを死なせたら、たとえ殺そうとしてやった事でなくても、石子(いしこ)づめの刑を受けると決まっていたのです。 
 石子づめとは、石をつめて生きうめにされることです。 
「えらい事や。ほんまに死んどる」 
「・・・・・・」 
 三作は口もきけずに、ただふるえていました。 
 そのうちに役人が飛んできて、おそろしい顔で三作をひきたてていきました。 
 それから数日後、興福寺境内(こうふくじけいだい)の十三鐘とよばれている前庭に、深い穴が掘られました。 
 可哀想に三作は、死んだシカと抱き合わせにされたうえ、石子づめにされてしまったのです。 
 それは日暮れ時で、むかしの時刻の呼び方で、七つ(→午後四時ごろ)と六つ(→午後六時ごろ)のあいだの事だったそうです。 
 七つには鐘が十四、六つには十二、なりますから、その間の十三で、十三鐘とよぶようになったとも言われています。 
 三作がどういう子どもだったのか、年は何才だったかは、記録に残っていません。 
 でも、しばらくあとで三作の母がここへきて、可哀想な我が子の形見に、モミジの木を植えたそうです。 
 『シカにモミジ』といわれて、この組み合わせは絵にもたくさん描かれていますが、それも、この事からはじまったといいます。 
 
 また、ほかの言い伝えには、三作は興福寺のお稚児(ちご→寺院などにつかえる少年)さんだったとか、年は十三才で、シカに投げつけたのは、習字の時に使う、ぶんちんの一種で、『けさん』という物だったともあります。 
 
 現在も奈良にはシカがたくさんいて、奈良公園のあたりには千頭以上のシカがいるそうです。 
      おしまい 
         
         
        
       
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