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銀河鉄道の夜・後編



動画制作 tsutosh

原作 宮沢賢治

九 ジヨバンニの切符

「もうここらは白鳥區のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの觀測所です。」
 窓の外の、まるで花火でいつぱいのやうな、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立つて、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青寶玉と黄玉の大きな二つのすきとほつた球が、輪になつてしづかにくるくるとまはつてゐました。
 黄いろのがだんだん向うへまはつて行つて、青い小さいのがこつちへ進んで來、間もなく二つのはじは、重なり合つて、きれいな緑いろの兩面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すつかりトパースの正面に來ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。
 それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、とうとうすつとはなれて、サフアイアは向うへめぐり、黄いろのはこつちへ進み、また恰度さつきのやうな風になりました。
 銀河のかたちもなく、音もない水にかこまれて、ほんたうにその黒い測候所が、睡つてゐるやうに、しづかによこたはつたのです。
「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」
 鳥捕りが云ひかけたとき、
「切符を拜見いたします。」
 赤い帽子をかぶつたせいの高い車掌が、いつか三人の席の横に、まつすぐに立つてゐて云ひました。
 鳥捕りはだまつてかくしから、小さな紙きれを出しました。
 車掌はちよつと見て、すぐ眼をそらして(あなた方のは?)といふやうに、指をうごかしながら、手をジヨバンニたちの方へ出しました。
「さあ。」
 ジヨバンニは困つて、もぢもぢしてゐましたら、カムパネルラはわけもないといふ風で、小さな鼠いろの切符を出しました。
 ジヨバンニは、すつかりあわててしまつて、もしか上着のポケツトにでも、入つてゐたかとおもひながら、手を入れて見ましたら、何か大きな疊んだ紙きれにあたりました。
 こんなもの入つてゐたらうかと思つて、急いで出してみましたら、それは四つに折つたはがきぐらゐの大きさの緑いろの紙でした。
 車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やつちまへと思つて渡しましたら、車掌はまつすぐに立ち直つて叮嚀にそれを開いて見てゐました。
 そして讀みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしてゐましたし、燈臺看守も下からそれを熱心にのぞいてゐましたから、ジヨバンニはたしかにあれは證明書か何かだつたと考へて、少し胸が熱くなるやうな氣がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになつたのですか。」
 車掌がたづねました。
「何だかわかりません。」
 もう大丈夫だと安心しながらジヨバンニは、そつちを見あげてくつくつ笑ひました。
「よろしうございます。南十字《サウザンクロス》へ着きますのは、次の第三時ころになります。」
 車掌は紙をジヨバンニに渡して向うへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だつたか待ち兼ねたといふやうに急いでのぞきこみました。
 ジヨバンニも全く早く見たかつたのです。
 ところがそれはいちめん黒い唐草のやうな模樣の中に、をかしな十ばかりの字を印刷したもので、だまつて見てゐると、何だかその中へ吸ひ込まれてしまふやうな氣がするのでした。
 すると鳥捕りが横からちらつとそれを見てあわてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。
 こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢやない、どこでも勝手にあるける通行券です。
 こいつをお持ちになれあ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鐵道なんか、どこまででも行ける筈でさあ。
 あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」
 ジヨバンニが赤くなつて答へながら、それを又疊んでかくしに入れました。
 そしてきまりが惡いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめてゐましたが、その鳥捕りの時々大したもんだといふやうに、ちらちらこつちを見てゐるのがぼんやりわかりました。
「もうぢき鷲の停車場だよ。」
 カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地圖とを見較べて云ひました。
 ジヨバンニはなんだかわけもわからずに、となりの鳥捕りが氣の毒でたまらなくなりました。
 鷺をつかまへて、せいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびつくりしたやうに横目で見て、あわててほめだしたり、そんなことを一々考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジヨバンニの持つてゐるものでも食べるものでもなんでもやつてしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立つて、百年つづけて立つて鳥をとつてやつてもいいといふやうな氣がして、どうしてももう默つてゐられなくなりました。
 ほんたうにあなたのほしいものは一體なんですか、と訊かうとして、それではあんまり出し拔けだから、どうせうかと考へて振り返つて見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。
 網棚の上には白い荷物も見えなかつたのです。
 また窓の外で足をふんばつてそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思つて、急いでそつちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの廣いせなかも尖つた帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行つたらう。」
 カムパネルラもぼんやりさう云つてゐました。
「どこへ行つたらう。一體どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかつたらう。」
「ああ、僕もさう思つてゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな氣がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」
 ジヨバンニはこんな變てこな氣もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云つたこともないと思ひました。
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のことを考へたためだらうか。」
 カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂ひだよ。それから野茨の匂もする。」
 ジヨバンニもそこらを見ましたがやつぱりそれは窓からでも入つて來るらしいのでした。
 いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジヨバンニは思ひました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髮の六つばかりの男の子が赤いジヤケツのぼたんもかけず、ひどくびつくりしたやうな顏をして、がたがたふるへてはだしで立つてゐました。
  隣りには黒い洋服をきちんと着た、せいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしつかりひいて立つてゐました。
「あら、ここどこでせう。まあ、きれいだわ。」
 青年のうしろにもひとり、十二ばかりの眼の茶いろな、可愛らしい女の子が黒い外套を着て、青年の腕にすがつて、不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
「ああ、ここはランカシヤイヤだ。
 いや、コンネクチカツト州だ。
 いや、ああぼくたちはそらへ來たのだ。
 わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい、あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことはありません。
 わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」
 黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に云ひました。
 けれどもなぜかまた、額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジヨバンニのとなりに坐らせました。
 それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。
 女の子はすなほにそこへ坐つてきちんと兩手を組み合せました。
「ぼく、おほねえさん。お父さんのとこへ行くんだよう。」
 腰掛けたばかりの男の子は顏を變にして、燈臺看守の向うの席に坐つたばかりの青年に云ひました。
 青年は何とも云へず悲しさうな顏をして、ぢつとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。
 女の子は、いきなり兩手を顏にあててしくしく泣いてしまひました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。
 けれどももうすぐあとからいらつしやいます。
 それよりも、おつかさんはどんなに永く待つていらつしやつたでせう。
 わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたつてゐるだらう、雪の降る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにはとこのやぶをまはつてあそんでゐるだらうかと考へたり、ほんたうに待つて、心配していらつしやるんですから、早く行つて、おつかさんにお目にかかりませうね。」
「うん、だけど僕、船に乘らなけあよかつたなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい。
 そら、どうです。
 あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スターをうたつてやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えてゐたでせう、あすこですよ。
 ね、きれいでせう、あんなに光つてゐます。」
 泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。
 青年は教へるやうにそつと姉弟にまた云ひました。
「わたしたちはもう、なんにもかなしいことはないのです。
 わたくしたちはこんないいとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行きます。
 そこならもう、ほんたうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいつぱいです。
  そしてわたしたちの代りに、ボートへ乘れた人たちは、きつとみんな助けられて、心配して待つてゐるめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家やらへ行くのです。
 さあ、もうぢきですから元氣を出しておもしろくうたつて行きませう。」
 青年は男の子のぬれたやうな黒い髮をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顏いろがかがやいて來ました。
「あなた方はどちらからいらつしやつたのですか。どうなすつたのですか。」
 さつきの燈臺看守がやつと少しわかつたやうに、青年にたづねました。
 青年はかすかにわらひました。
「いえ、氷山にぶつつかつて船が沈みましてね。
 わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前、一足さきに本國へお歸りになつたので、あとから發つたのです。
 私は大學へはいつてゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。
 ところがちやうど十二日目、今日か昨日のあたりです。船が氷山にぶつつかつて一ぺんに傾き、もう沈みかけました。
 月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かつたのです。
 ところがボートは左舷の方半分はもうだめになつてゐましたから、とてもみんなは乘り切れないのです。
 もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となつて、どうか小さな人たちを乘せて下さいと叫びました。
 近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈つて呉れました。
 けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇氣がなかつたのです。
 それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから、前にゐる子供らを押しのけようとしました。
 けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が、ほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。
 それから、またその神にそむく罪はわたくしひとりでしよつてぜひとも助けてあげようと思ひました。
 けれども、どうしても見てゐるとそれができないのでした。
 子どもらばかりボートの中へはなしてやつて、お母さんが狂氣のやうにキスを送り、お父さんがかなしいのをぢつとこらへてまつすぐに立つてゐるなど、とてももう腸もちぎれるやうでした。
 そのうち船はもうずんずん沈みますから、私たちはかたまつて、もうすつかり覺悟して、この人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ばうと船の沈むのを待つてゐました。
 誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで來ました。
 けれども滑つてずうつと向うへ行つてしまひました。
 私は一生けん命で甲板の格子になつたところをはなして、三人それにしつかりとりつきました。
 どこからともなく讚美歌の聲があがりました。
 たちまちみんなはいろいろな國語で一ぺんにそれを歌ひました。
 そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ち、もう渦に入つたと思ひながらしつかりこの人たちをだいてそれからぼうつとしたと思つたらもうここへ來てゐたのです。
 この方たちのお母さんは一昨年歿くなられました。
 ええ、ボートはきつと助かつたにちがひありません。
 何せよほど熟練な水夫たちが漕いで、すばやく船からはなれてゐましたから。」
 そこから小さな嘆息やいのりの聲が聞え、ジヨバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフイツクといふのではなかつたらうか。
 その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乘つて、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかつて、たれかが一生けんめいはたらいてゐる。
 ぼくはそのひとにほんたうに氣の毒で、そしてすまないやうな氣がする。
 ぼくはそのひとのさいはひのためにいつたいどうしたらいいのだらう。)
 ジヨバンニは首を垂れて、すつかりふさぎ込んでしまひました。
「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈臺守がなぐさめてゐました。
「ああさうです。ただいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんな、おぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。
 そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいにぐつたり席によりかかつて睡つてゐました。
 さつきのあのはだしだつた足にはいつか白い柔らかな靴をはいてゐたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。
 向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。
 百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い點々をうつた測量旗も見え、野原のはてはそれがいちめん、たくさんたくさん集つてぼうつと青白い霧のやう、そこからか、またはもつと向うからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。
 じつにそのすきとほつた綺麗な風は、ばらの匂でいつぱいでした。
「いかがですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。」
 向うの席の燈臺看守が、いつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに、兩手で膝の上にかかえてゐました。
「おや、どつから來たのですか。立派ですね。ここらではこんな苹果ができるのですか。」
 青年はほんたうにびつくりしたらしく、燈臺看守の兩手にかかえられた一もりの苹果を、眼を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめてゐました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」
 青年は一つとつてジヨバンニたちの方をちよつと見ました。
「さあ、向うの坊ちやんがた。いかがですか。おとり下さい。」
 ジヨバンニは坊ちやんと云はれたので、すこししやくにさはつてだまつてゐましたが、カムパネルラは「ありがたう。」と云ひました。
 すると青年は自分でとつて一つづつ二人に送つてよこしましたので、ジヨバンニも立つてありがたうと云ひました。
 燈臺看守はやつと兩腕があいたので、こんどは自分で一つづつ睡つてゐる姉弟の膝にそつと置きました。
「どうもありがたう。どこでできるのですか、こんな立派な苹果は。」
 青年はつくづく見ながら云ひました。
「この邊ではもちろん農業はいたしますけれども、大ていひとりでにいいものができるやうな約束になつて居ります。
 農業だつてそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さへ播けばひとりでにどんどんできます。米だつてパシフイツク邊のやうに殼もないし、十倍も大きくて匂もいいのです。
 けれどもあなたがたのこれからいらつしやる方なら、農業はもうありません。
 苹果だつてお菓子だつてかすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによつてちがつた、わづかのいいかをりになつて毛あなからちらけてしまふのです。」
 にはかに男の子がぱつちり眼をあいて云ひました。
「ああぼく、いまお母さんの夢をみてゐたよ。
 お母さんがね、立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらつたよ。
 ぼく、おつかさん、りんごをひろつてきてあげませうか。
 と云つたら眼がさめちやつた。
 ああここ、さつきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このをぢさんにいただいたのですよ。」
 青年が云ひました。
「ありがたうをぢさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。ごらん、りんごをもらつたよ。おきてごらん。」
 姉はわらつて眼をさまし、まぶしさうに兩手を眼にあてて、それから苹果を見ました。
 男の子はまるでパイを喰べるやうに、もうそれを喰べてゐました。
 また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク拔きのやうな形になつて床へ落ちるまでの間には、すうつと灰いろに光つて蒸發してしまふのでした。
 二人はりんごを大切にポケツトにしまひました。
「いまどの邊あるいてるの。」
 ジヨバンニがききました。
「ここだよ。」
 カムパネルラは鷲の停車場の少し南を指さしました。
 川下の向う岸に青く茂つた大きな林が見え、その枝には熟してまつ赤に光る圓い實がいつぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立つて、森の中からはオーケストラベルやジロフオンにまじつて何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて來るのでした。
 青年はぞくつとしてからだをふるふやうにしました。
 だまつてその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまつ白な臘のやうな霧が太陽の面を擦めて行くやうに思はれました。
「まあ、あの烏。」
 カムパネルラのとなりの、かほると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」
 カムパネルラがまた何氣なく叱るやうに叫びましたので、ジヨバンニはまた思はず笑ひ、女の子はきまり惡さうにしました。
 まつたく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいつぱいに列になつてとまつてぢつと川の微光を受けてゐるのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのところに毛がぴんと延びてますから。」
 青年はとりなすやうに云ひました。
 向うの青い森の中の三角標はすつかり汽車の正面に來ました。
 そのとき汽車のずうつとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讚美歌のふしが聞えてきました。
 よほどの人數で合唱してゐるらしいのでした。
 青年はさつと顏いろが青ざめ、たつて一ぺんそつちへ行きさうにしましたが思ひかへしてまた坐りました。
 かほるはハンケチを顏にあててしまひました。
 ジヨバンニまで何だか鼻が變になりました。
 けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出され、だんだんはつきり強くなりました。
 思はずジヨバンニもカムパネルラも一緒にうたひ出したのです。
 そして青い橄欖の森が、見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行つてしまひ、そこから流れて來るあやしい樂器の音も、もう汽車のひびきや風の音にすり耗らされてずうつとかすかになりました。
「あ、孔雀が居るよ。あ、孔雀が居るよ。」
「あの森|琴《ライラ》の宿でせう。あたしきつとあの森の中には、むかしの大きなオーケストラの人たちが集まつていらつしやると思ふわ。まはりには青い孔雀やなんかたくさんゐると思ふわ。」
 女の子が答へました。
 ジヨバンニは、その小さく小さくなつていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上に、さつと青じろく時々光つて、その孔雀がはねをひろげたりとぢたりするのを見ました。
「さうだ、孔雀の聲だつてさつき聞えた。」
 カムパネルラが女の子に云ひました。
「ええ、三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。」
 女の子が答へました。
 ジヨバンニは俄かに何とも云へずかなしい氣がして、思はず、
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行かうよ。」
とこはい顏をして云はうとしたくらゐでした。
 ところがそのときジヨバンニは川下の遠くの方に不思議なものを見ました。
 それはたしかになにか黒いつるつるした細長いもので、あの見えない天の川の水の上に飛び出してちよつと弓のやうなかたちに進んで、また水の中にかくれたやうでした。
 をかしいと思つてまたよく氣を付けてゐましたらこんどはずつと近くでまたそんなことがあつたらしいのでした。
 そのうちもうあつちでもこつちでも、その黒いつるつるした變なものが水から飛び出して、圓く飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えて來ました。
 みんな魚のやうに川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、何でせう。たあちやん、ごらんなさい。まあ澤山だわね。何でせうあれ。」
 睡むさうに眼をこすつてゐた男の子はびつくりしたやうに立ちあがりました。
「何だらう。」青年も立ちあがりました。
「まあ、をかしな魚だわ、何でせうあれ。」
「海豚です。」
 カムパネルラがそつちを見ながら答へました。
「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海ぢやないんでせう。」
「いるかは海に居るときまつてゐない。」
 あの不思議な低い聲がまたどこからかしました。
 ほんたうにそのいるかのかたちのをかしいことは、二つのひれを丁度兩手をさげて不動の姿勢をとつたやうな風にして水の中から飛び出して來て、うやうやしく頭を下にして不動の姿勢のまままた水の中へくぐつて行くのでした。
 見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のやうに波をあげるのでした。
「いるかお魚でせうか。」
 女の子がカムパネルラにはなしかけました。
 男の子はぐつたりつかれたやうに席にもたれて睡つてゐました。
「いるか、魚ぢやありません。くぢらと同じやうなけだものです。」
 カムパネルラが答へました。
「あなたくぢら見たことあつて。」
「僕あります。くぢら、頭と黒いしつぽだけ見えます。潮を吹くと丁度本にあるやうになります。」
「くぢらなら大きいわねえ。」
「くぢら大きいです。子供だつているかぐらゐあります。」
「さうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ。」
 姉は細い銀いろの指輪をいぢりながらおもしろさうにはなししてゐました。
(カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや。)
 ジヨバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅く唇を噛んでこらへて窓の外を見てゐました。
 その窓の外には海豚のかたちももう見えなくなつて川は二つにわかれました。
 そのまつくらな島のまん中に、高い高いやぐらが一つ組まれてその上に、一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶつた男が立つてゐました。
 そして兩手に赤と青の旗をもつてそらを見上げて信號してゐるのでした。
 ジヨバンニが見てゐる間、その人はしきりに赤い旗をふつてゐましたが、俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし、青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。
 すると空中にざあつと雨のやうな音がして、何かまつくろなものがいくかたまりもいくかたまりも、鐵砲彈のやうに川の向うの方へ飛んで行くのでした。
 ジヨバンニは思はず窓からからだを半分出して、そつちを見あげました。
 美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を、實に何萬といふ小さな鳥どもが幾組も幾組も、めいめいせはしくせはしく鳴いて通つて行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」
 ジヨバンニが窓の外で云ひました。
「どら。」
 カムパネルラもそらを見ました。
 そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は、俄かに赤い旗をあげて狂氣のやうにふりうごかしました。
 するとぴたつと鳥の群は通らなくなり、それと同時にぴしやあんといふ潰れたやうな音が川下の方で起つて、それからしばらくしいんとしました。
と思つたらあの赤帽の信號手がまた青い旗をふつて叫んでゐたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」
 その聲もはつきり聞えました。それといつしよにまた幾萬といふ鳥の群がそらをまつすぐにかけたのです。
 二人の顏を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顏を出して、美しい頬をかがやかせながら大ぞらを仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ。あらまあそらのきれいなこと。」
 女の子はジヨバンニにはなしかけました。
 けれどもジヨバンニは生意氣な、いやだいと思ひながら、だまつて口をむすんでそらを見あげてゐました。
 女の子は小さくほつと息をして、だまつて席へ戻りました。
 カムパネルラが氣の毒さうに窓から顏を引つ込めて地圖を見てゐました。
「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」
 女の子がそつとカムパネルラにたづねました。
「わたり鳥へ信號してるんです。きつとどこからかのろしがあがるためでせう。」
 カムパネルラが少しおぼつかなささうに答へました。
 そして車の中はしいんとなりました。
 ジヨバンニはもう頭を引つ込めたかつたのですけれども、明るいとこへ顏を出すのがつらかつたので、だまつてこらへてそのまま立つて口笛を吹いてゐました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。
 僕はもつとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。
 あすこの岸のずうつと向うにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。
 あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしづめるんだ。)
 ジヨバンニは熱つて痛いあたまを兩手で押へるやうにして、そつちの方を見ました。
(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といつしよに行くひとはないだらうか。カムパネルラだつてあんな女の子とおもしろさうに話してゐるし、僕はほんたうにつらいなあ。)
 ジヨバンニの眼はまた泪でいつぱいになり、天の川もまるで遠くへ行つたやうにぼんやり白く見えるだけでした。
 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。
 向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがつて、だんだん高くなつて行くのでした。
 そしてちらつと大きなたうもろこしの木を見ました。
 その葉はぐるぐるに縮れ、葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて、眞珠のやうな實もちらつと見えたのでした。
 それはだんだん數を増して來て、もういまは列のやうに崖と線路との間にならび、思はずジヨバンニが窓から顏を引つ込めて向う側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原、地平線のはてまで、その大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植ゑられてさやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるでひるの間にいつぱい日光を吸つた金剛石のやうに、露がいつぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光つてゐるのでした。
 カムパネルラが、
「あれたうもろこしだねえ。」
とジヨバンニに云ひましたけれども、ジヨバンニはどうしても氣持がなほりませんでしたから、ただぶつきら棒に野原を見たまま、
「さうだらう。」
と答へました。
 そのとき汽車はだんだんしづかになつて、いくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ、小さな停車場にとまりました。
 その正面の青じろい時計はかつきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかに、カチツカチツと正しく時を刻んで行くのでした。
 そしてまつたくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のやうに流れて來るのでした。
「新世界交響樂だわ。」
 向うの席の姉がひとりごとのやうにこつちを見ながらそつと言ひました。
 全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰れもみんなやさしい夢を見てゐるのでした。
(こんなしづかないいところで僕はどうしてもつと愉快になれないだらう。
 どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。
 僕といつしよに汽車に乘つてゐながら、まるであんな女の子とばかり話してゐるんだもの。
 僕はほんたうにつらい。)
 ジヨバンニはまた兩手で顏を半分かくすやうにして、向うの窓のそとを見つめてゐました。
 すきとほつた硝子のやうな笛が鳴つて、汽車はしづかに動き出し、カムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。
「ええ、ええ、もうこの邊はひどい高原ですから。」
 うしろの方で誰かとしよりらしい人の、いま眼がさめたといふ風ではきはき話してゐる聲がしました。
「たうもろこしだつて棒で二尺も孔をあけておいて、そこへ播かないと生えないんです。」
「さうですか、川まではよほどありませうかねえ。」
「ええ、ええ、河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峽谷になつてゐるんです。」
 さうさう、ここはコロラドの高原ぢやなかつたらうか、ジヨバンニは思はずさう思ひました。
 姉は弟を自分の胸によりかからせて睡らせながら、黒い瞳をうつとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考へ込んで居るのでしたし、カムパネルラはまたさびしさうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顏いろをしてねむつて居りました。
 突然たうもろこしがなくなつて、巨きな黒い野原がいつぱいにひらけました。
 新世界交響樂ははつきり地平線のはてから湧き、そのまつ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけ、たくさんの石を腕と胸にかざり、小さな弓に矢を番へて一目散に汽車を追つて來るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。ごらんなさい。」
 黒服の青年も眼をさましました。
 ジヨバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走つて來るわ。あら、走つて來るわ。追ひかけてゐるんでせう。」
「いいえ、汽車を追つてるんぢやないんですよ、獵をするか踊るかしてるんですよ。」
 青年はいまどこに居るか忘れたといふ風に、ポケツトに手を入れて立ちながら云ひました。
 まつたくインデアンは半分は踊つてゐるやうでした。
 第一かけるにしても足のふみやうがもつと經濟もとれ、本氣にもなれさうでした。
 にはかにくつきり白いその羽根は前の方へ倒れるやうになり、インデアンはぴたつと立ちどまつてすばやく弓を空にひきました。
 そこから一羽の鶴がふらふらと落ちて來て、また走り出したインデアンの大きくひろげた兩手に落ちこみました。
 インデアンはうれしさうに立つてわらひました。
 そしてその鶴をもつてこつちを見てゐる影も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍子がきらつきらつと續いて二つばかり光つて、またたうもろこしの林になつてしまひました。
 こつち側の窓を見ますと、汽車はほんたうに高い高い崖の上を走つてゐて、その谷の底には川がやつぱり幅ひろく明るく流れてゐたのです。
「ええ、もうこの邊から下りです。
 何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢやありません。
 この傾斜があるもんですから、汽車は決して向うからこつちへは來ないんです。
 そら、もうだんだん早くなつたでせう。」
 さつきの老人らしい聲が云ひました。
 どんどんどんどん汽車は降りて行きました。
 崖のはしに鐵道がかかるときは、川が明るく下にのぞけたのです。
 ジヨバンニはだんだんこころもちが明るくなつて來ました。
 汽車が小さな小屋の前を通つて、その前にしよんぼりひとりの子供が立つてこつちを見てゐるときなどは思はず、ほう、と叫びました。
 どんどんどんどん汽車は走つて行きました。
 室中のひとたちは、半分うしろの方へ倒れるやうになりながら、腰掛にしつかりしがみついてゐました。
 ジヨバンニは思はずカムパネルラとわらひました。
 もうそして天の川は汽車のすぐ横手を、いままたよほど激しく流れて來たらしく、ときどきちらちら光つてながれてゐるのでした。
 うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いてゐました。
 汽車はやうやく落ちついたやうにゆつくりと走つてゐました。
 向うとこつちの岸に、星のかたちとつるはしを書いた旗がたつてゐました。
「あれ、何の旗だらうね。」ジヨバンニがやつとものを云ひました。
「さあ、わからないねえ。地圖にもないんだもの。鐵の舟がおいてあるねえ。」
「ああ。」
「橋を架けるとこぢやないんでせうか。」
 女の子が云ひました。
「ああ、あれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」
 その時向う岸ちかく、少し下流の方で、見えない天の川の水がぎらつと光つて、柱のやうに高くはねあがり、どおと烈しい音がしました。
「發破だよ。發破だよ。」
 カムパネルラはこをどりしました。
 その柱のやうになつた水は見えなくなり、大きな鮭や鱒がきらつきらつと白く腹を光らせて空中に抛り出されて、圓い輪を描いてまた水に落ちました。
 ジヨバンニはもうはねあがりたいくらゐ氣持が輕くなつて云ひました。
「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかがまるでこんなになつてはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いいねえ。」
「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」
 女の子が話につり込まれて云ひました。
「居るんでせう。
 大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。
 けれど遠くだから、いま小さいの見えなかつたねえ。」
 ジヨバンニはもうすつかり機嫌が直つて、面白さうにわらつて女の子に答へました。
「あれきつと雙子のお星さまのお宮だよ。」
 男の子が、いきなり窓の外をさして叫びました。
 右手の低い丘の上に小さな水晶ででもこさえたやうな二つのお宮がならんで立つてゐました。
「雙子のお星さまのお宮つて何だい。」
「あたし前になんべんもお母さんから聞いたわ、ちやんと小さな水晶のお宮で二つならんでゐるからきつとさうだわ。」
「はなしてごらん。雙子のお星さまが何したつての。」
「ぼくも知つてらい。雙子のお星さまが野原へ遊びにでて、からすと喧嘩したんだらう。」
「さうぢやないわよ。あのね、天の川の岸にね、おつかさんお話なすつたわ。……」
「それから彗星《はうきぼし》が、ギーギーフーギーギーフーて云つて來たねえ。」
「いやだわたあちやん、さうぢやないわよ。それはべつの方だわ。」
「するとあすこにいま笛を吹いて居るんだらうか。」
「いま海へ行つてらあ。」
「いけないわよ。もう海からあがつていらつしやつたのよ。」
「さうさう、ぼく知つてらあ、ぼくおはなししよう。」

        *     *

 川の向う岸が俄に赤くなりました。
 楊の木や何かもまつ黒にすかし出され、見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。
 まつたく向う岸の野原に大きなまつ赤な火が燃され、その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。
 ルビーよりも赤くすきとほり、リチウムよりも、うつくしく醉つたやうになつてその火は燃えてゐるのでした。
「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃せばできるんだらう。」
 ジヨバンニが云ひました。
「蝎の火だな。」
 カムパネルラが又地圖と首つ引きして答へました。
「あら、蝎の火のことならあたし知つてるわ。」
「蝎の火つて何だい。」
 ジヨバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるつて、あたし何べんもお父さんから聽いたわ。」
「蝎つて、蟲だらう。」
「ええ、蝎は蟲よ。だけどいい蟲だわ。」
「蝎いい蟲ぢやないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあつて、それで刺されると死ぬつて先生が云つたよ。」
「さうよ。
 だけどいい蟲だわ、お父さん斯う云つたのよ。
 むかしバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて、小さな蟲やなんか殺してたべて生きてゐたんですつて。
 するとある日、いたちに見附かつて食べられさうになつたんですつて。
 さそりは一生けん命遁げて遁げたけど、とうとういたちに押へられさうになつたわ。
 そのとき、いきなり前に井戸があつてその中に落ちてしまつたわ。
 もうどうしてもあがられないで、さそりは溺れはじめたのよ。
 そのときさそりは斯う云つてお祈りしたといふの。
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生懸命にげた。
 それでもとうとうこんなになつてしまつた。
 ああなんにもあてにならない。
 どうしてわたしはわたしのからだを、だまつていたちに呉れてやらなかつたらう。
 そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。
 私の心をごらん下さい。
 こんなにむなしく命をすてず、どうかこの償には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。
 つて云つたといふの。
 そしたらいつか蝎はじぶんのからだが、まつ赤なうつくしい火になつて燃えて、よるのやみを照らしてゐるのを見たつて。
 いつまでも燃えてるつてお父さん、仰つしやつたわ。
 ほんたうにあの火、それだわ。」
「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちやうどさそりの形にならんでゐるよ。」
 ジヨバンニはまつたくその大きな火の向うに、三つの三角標が、さそりの腕のやうに、こつちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。
 そしてほんたうにそのまつ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
 その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの樂の音や草花の匂のやうなもの、口笛や人々のざわざわ云ふ聲やらを聞きました。
 それはもうぢきちかくに町か何かがあつて、そこにお祭でもあるといふやうな氣がするのでした。
「ケンタウルス、露をふらせ。」
 いきなりいままで睡つていたジヨバンニのとなりの男の子が、向うの窓を見ながら叫んでゐました。
 ああそこにはクリスマストリイのやうにまつ青な唐檜かもみの木がたつて、その中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の螢でも集つたやうについてゐました。
「ああ、さうだ。今夜ケンタウル祭だねえ。」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」
カムパネルラがすぐ云ひました。

  ……(次の原稿一枚位なし)……

「ボール投げなら僕決してはづさない。」
 男の子が大威張で云ひ出しました。
「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」
 青年がみんなに云ひました。
「僕、も少し汽車へ乘つてるんだよ。」
 男の子が云ひました。
 カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立つて支度をはじめました。
 けれどもやつぱりジヨバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。
「ここでおりなけあいけないのです。」
 青年はきちつと口を結んで男の子を見おろしながら云ひました。
「厭だい。僕、もう少し汽車へ乘つてから行くんだい。」
 ジヨバンニがこらへ兼ねて云ひました。
「僕たちと一緒に乘つて行かう。僕たちどこまでだつて行ける切符持つてるんだ。」
「だけどあたしたち、もうここで降りなけあいけないのよ、ここ天上へ行くとこなんだから。」
 女の子がさびしさうに云ひました。
「天上へなんか行かなくたつていいぢやないか。ぼくたちここで天上よりももつといいとこをこさへなけあいけないつて僕の先生が云つたよ。」
「だつてお母さんも行つてらつしやるし、それに神さまも仰つしやるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「さうぢやないよ。」
「あなたの神さまつてどんな神さまですか。」
 青年は笑ひながら云ひました。
「ぼくほんたうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんたうのたつた一人の神さまです。」
「ほんたうの神さまはもちろんたつた一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたつたひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」
「だからさうぢやありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前に、わたくしたちとお會ひになることを祈ります。」
 青年はつつましく兩手を組みました。
 女の子もちやうどその通りにしました。
 みんなほんたうに別れが惜しさうで、その顏いろも少し青ざめて見えました。
 ジヨバンニはあぶなく聲をあげて泣き出さうとしました。
「さあもう支度はいいんですか。ぢきサウザンクロスですから。」
 ああそのときでした。見えない天の川のずうつと川下に青や橙や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架が、まるで一本の木といふ風に川の中から立つてかがやき、その上には青じろい雲がまるい環になつて後光のやうにかかつてゐるのでした。
 汽車の中がまるでざわざわしました。
 みんなあの北の十字のときのやうにまつすぐに立つてお祈りをはじめました。
 あつちにもこつちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの聲や、何とも云ひやうのない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。
 そしてだんだん十字架は窓の正面になり、あの苹果の肉のやうな青じろい銀の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞つてゐるのが見えました。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」
 明るくたのしくみんなの聲はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとほつた何とも云へずさわやかなラツパの聲をききました。
 そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架のちやうどま向ひに行つてすつかりとまりました。
「さあ、降りるんですよ。」
 青年は男の子の手をひき、姉はじぶんのえりや肩をなほしながらだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「ぢやさよなら。」
 女の子がふりかへつて二人に云ひました。
「さやなら。」
 ジヨバンニはまるで泣き出したいのをこらへて、怒つたやうにぶつきら棒に云ひました。
 女の子はいかにもつらさうに眼を大きくして、も一度こつちをふりかへつてそれからあとはもうだまつて出て行つてしまひました。
 汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ、俄かにがらんとしてさびしくなり、風がいつぱいに吹き込みました。
 そして見てゐるとみんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。
 そしてその見えない天の川の水をわたつて、ひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこつちへ來るのを二人は見ました。
 けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ふうちに銀いろの霧が川下の方から、すうつと流れて來て、もうそつちは何も見えなくなりました。
 ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち、黄金の圓光をもつた電氣栗鼠が、可愛い顏をその中からちらちらのぞかしてゐるだけでした。
 そのとき、すうつと霧がはれかかりました。
 どこかへ行く街道らしい小さな電燈の一列についた通りがありました。
 それはしばらく線路に沿つて進んでゐました。
 そして二人がそのあかしの前を通つて行くときは、その小さな豆いろの火はちやうど挨拶でもするやうにぽかつと消え、二人が過ぎて行くときまた點くのでした。
 ふりかへつて見ると、さつきの十字架はすつかり小さくなつてしまひ、ほんたうにもう、そのまま胸にも吊されさうになり、さつきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのか、それともどこか方角もわからないその天上へ行つたのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
 ジヨバンニは、ああ、と深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになつたねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもう、あのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だつてさうだ。」
 カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいはひは一體何だらう。」
 ジヨバンニが云ひました。
「僕わからない。」
 カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしつかりやらうねえ。」
 ジヨバンニが胸いつぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」
 カムパネルラが、少しそつちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。
 ジヨバンニはそつちを見て、まるでぎくつとしてしまひました。
 天の川の一ととこに大きなまつくらな孔が、どほんとあいてゐるのです。
 その底がどれほど深いか、その奧に何があるか、いくら眼をこすつてのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのでした。
 ジヨバンニが云ひました。
「僕、もうあんな大きな闇の中だつてこはくない、きつとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く、どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
「ああきつと行くよ。」
 カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指さして叫びました。
「ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集つてるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あつ、あすこにゐるのはぼくのお母さんだよ。」
 ジヨバンニもそつちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむつてゐるばかり、どうしてもカムパネルラが云つたやうに思はれませんでした。
 何とも云へずさびしい氣がして、ぼんやりそつちを見てゐましたら、向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度兩方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立つてゐました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」
 ジヨバンニが斯う云ひながらふりかへつて見ましたら、そのいままでカムパネルラの坐つてゐた席に、もうカムパネルラの形は見えず黒いびろうどばかりひかつてゐました。
 ジヨバンニはまるで鐵砲彈のやうに立ちあがりました。
 そして窓の外へからだを乘り出して、力いつぱいはげしく胸をうつて叫び、それからもう咽喉いつぱい泣きだしました。
 もうそこらが一ぺんにまつくらになつたやうに思ひました。
 そのとき、
「おまへはいつたい何を泣いてゐるの。ちよつとこつちをごらん。」
 いままでたびたび聞えた、あのやさしいセロのやうな聲がジヨバンニのうしろから聞えました。
 ジヨバンニは、はつと思つて涙をはらつてそつちをふり向きました。
 さつきまでカムパネルラの坐つてゐた席に黒い大きな帽子をかぶつた青白い顏の痩せた大人が、やさしくわらつて大きな一册の本をもつてゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行つたのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行つたのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといつしよにまつすぐに行かうと云つたんです。」
「ああ、さうだ。
 みんながさう考へる。
 けれどもいつしよに行けない。
 そしてみんながカムパネルラだ。
 おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。
 だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。
 そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ。」
「ああぼくはきつとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでせう。」
「ああわたくしもそれをもとめてゐる。
 おまへはおまへの切符をしつかりもつておいで。
 そして一しんに勉強しなけあいけない。
 おまへは化學をならつたらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知つてゐる。いまはだれだつてそれを疑やしない。
 實驗して見るとほんたうにさうなんだから。
 けれども昔はそれを水銀と鹽でできてゐると云つたり、水銀と硫黄でできてゐると云つたりいろいろ議論したのだ。
 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。
 けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。
 それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。
 そして勝負がつかないだらう。
 けれどももし、おまへがほんたうに勉強して、實驗でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その實驗の方法さへきまれば、もう信仰も化學と同じやうになる。
 けれども、ね、ちよつとこの本をごらん。
 いいかい。
 これは地理と歴史の辭典だよ。
 この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。
 よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。
 だからこの頁一つが一册の地歴の本にあたるんだ。
 いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本當だ。
 さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。
 けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。
 だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。
 このときには斯うなのだ。
 變な顏してはいけない。
 ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから、そらごらん、ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。
 いいか。」
 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。
 するといきなりジヨバンニは自分といふものがじぶんの考へといふものが、汽車やその學者や天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。
 だんだんそれが早くなつて、まもなくすつかりもとのとほりになりました。
「さあいいか。
 だからおまへの實驗はこのきれぎれの考へのはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。
 それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。
 ああごらん、あすこにプレアデスが見える。
 おまへはあのプレアデスの鎖を解かなければならない。」
 そのときまつくらな地平線の向うから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすつかり明るくなりました。
 そしてのろしは高くそらにかかつて光りつづけました。
「ああマジエランの星雲だ。
 さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
 ジヨバンニは唇を噛んで、そのいちばん幸福なそのひとのために、そのマジエランの星雲をのぞんで立ちました。
「さあ、切符をしつかり持つておいで。
 お前はもう夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない。
 天の川のなかでたつた一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」
 あのセロのやうな聲がしたと思ふとジヨバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなつて風が吹き、自分はまつすぐに草の丘に立つてゐるのを見、また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて來るのをききました。
「ありがたう。
 私は大へんいい實驗をした。
 私はこんなしづかな場所で、遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた。
 お前の云つた言葉はみんな私の手帖にとつてある。さあ歸つておやすみ。
 お前は夢の中で決心したとほりまつすぐに進んで行くがいい。
 そしてこれから何でもいつでも私のところへ相談においでなさい。」
「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます。」
 ジヨバンニは力強く云ひました。
「ああではさよなら。これはさつきの切符です。」
 博士は小さく折つた緑いろの紙を、ジヨバンニのポケツトに入れました。
 そしてもうそのかたちは天氣輪の柱の向うに見えなくなつてゐました。
 ジヨバンニはまつすぐに走つて丘をおりました。
 そしてポケツトが大へん重くカチカチ鳴るのに氣がつきました。林の中でとまつてそれをしらべて見ましたら、あの緑いろのさつき夢の中でみたあやしい天の切符の中に、大きな二枚の金貨が包んでありました。
「博士ありがたう、おつかさん。すぐ乳をもつて行きますよ。」
 ジヨバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジヨバンニの胸に集つて何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣がするのでした。

 琴の星がずうつと西の方へ移つてそしてまた夢のやうに足をのばしてゐました。

おしまい

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